偏差値は日本の教育に必要か?

議論再燃。そもそも偏差値とは何か?

偏差値は日本の教育に必要か?

最近、「偏差値」についての議論が再燃しています。批判者の代表的な意見は、「偏差値は、あくまで画一的ペーパー試験のみによる『モノサシ』であり、それだけで人を判断することは不可能であるにも関わらず、その偏差値により多くの学生が一喜一憂し、その犠牲になっている」というものです。

一方、賛成派は「ペーパー試験による画一試験以外での判断方法は、人が人を見るということになるため、その人の見方次第でどうしても恣意的な結果になる可能性があり、画一的なペーパー試験による偏差値は必要だ」と主張しています。

ところで、そもそも偏差値とは、何なのでしょう。もともと、偏差値の定義は「学力検査の得点(素点)を、全体の平均点と標準偏差により正規化した値」で、その目的は「条件の異なるデータを比較しやすくすること」にあります。これにより、「個々の試験の難易度の違いに左右されずに、自分が今どれくらいの位置にいるのか」がわかるのです。そのため、生徒の学力、学習進度、受験における合格可能性を判定するために多く利用されています。

しかし、この偏差値が一人歩きをし、「自分のすべての能力・価値が決められている」と錯覚してしまう問題をはらんでいるのも確かです。

偏差値を過大視していないか?

では、この偏差値というものは、日本の教育に本当に必要なのでしょうか。私がこの問題で最も重要だと考える点は、偏差値が必要か否か以前に、「過大視されていないか」ということです。偏差値を批判する人たちが言うように、偏差値は確かに「ペーパー試験による画一的な能力のモノサシでしかない」のですが、一方で、そのモノサシが「何についてのモノサシでしかないのか?」ということが、忘れられているように思えるところです。

大学受験を例にとれば、そこで試されている能力は、論理的思考力、表現力、暗記力、忍耐力、習慣などでしかありません。確かにこれらの能力も、将来にわたり大切な能力には違いありませんが、世の中で活躍していく上で、それらはごく一部のものでしかないのも事実です。そして試験では、それらについての能力が「どの程度あるのか」という点しか試されていません。これは同時に、偏差値もまた、「それについての能力を測るモノサシでしかない」ということになります。

もともと試験というのは、ある一定の目的を持って作られている以上、それに沿えば「その能力においては優秀である」という意味合いしか持たないはずです。それなのに、偏差値が、まるですべての能力のモノサシであるが如く見られてしまっているように感じます。また、試験というのは、いくら工夫しようとも、そこに一定の目的がある以上、その優劣を比較するためのモノサシが当然生まれるものであり、それは、もし人が選抜する場合でも、見る人により変わるモノサシであるという点で、なんら変わらないのです。

偏差値は、一部の能力についてのみ定めた、たった一つのモノサシ

今回の問題で何より大切なのは、モノサシが存在していることを非難するのではなく、それが、ある一定の一部の能力についてのみ定めた、たった一つのモノサシにすぎないという点をしっかりと周知することのように思えます。

確かに、多くの受験生が偏差値に振り回されている事実は否めません。しかし、それが「ある一定範囲の能力のみに対して使うモノサシである」ときちんと理解したうえで判断し、機能させていくということであれば、それは競争という意味では決して悪いことではないでしょう。

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