ナイジェリアのテロ組織「ボコ・ハラム」が主張する世界(アフリカさるく紀行)
今回はSusumuAfricaさんのブログ『アフリカさるく紀行』からご寄稿いただきました。
※この記事は2014年05月09日に書かれたものです。
ナイジェリアのテロ組織「ボコ・ハラム」が主張する世界(アフリカさるく紀行)
ニュースを見ていてもたってもいられなくて書き上げました。かなり荒い考察ですが、読んで頂けると嬉しいです。
ナイジェリア北部において女子生徒200人を連れ去り、なおも過激な襲撃を続けるテロ組織ボコ・ハラム。「ボコ」はハウサ語で「偽りの」、「ハラム」はアラビア語で「禁止」を意味することからイスラム教の教えに反する教育=西洋式の教育禁止という意味になるといいます(高橋和夫「ナイジェリアでの女子生徒集団拉致事件*1」)。彼らは人質を「奴隷」として売り払うという脅迫を続けているそうです。
*1:「ナイジェリアでの女生徒集団拉致事件」 2014年05月08日 『Yahoo!ニュース』
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takahashikazuo/20140508-00035119/
この事件の発端は貧しい北部のイスラム教徒による政府への攻撃、と捉えられがちですが、根本をたどっていくと現在のナイジェリアが形成されるに至った長い歴史をみつめ直さなければならない気がします。
ナイジェリアには100以上の民族が暮らしていますが、北部のハウサ人、南西部のヨルバ人、南東部のイボ人が全体の6割を占めるといわれています。今回はこの3者に注目して歴史を振り返りたいと思います。100以上もの民族を無視して書くのは心もとありませんが、私の技量と紙面の都合上、3者の歴史にとどめたいと思います。
独立前夜の地殻変動
ボコ・ハラムの属するハウサは14世紀後半にイスラム教化すると、サハラ砂漠を介した貿易で勢力を伸ばし、強大なハウサ諸王国を築きました。大航海時代に入り、次第に奴隷貿易が熱を帯びてくるとイボ、ヨルバが伸張してきました。彼らは近隣諸国から奴隷を集め、奴隷商人に売ることで莫大な利益をあげました。つまり、3者はみな外界との商業的つながりにより発展してきました。
ヨーロッパ世界の産業革命の影響で奴隷の需要が衰えてきたヨーロッパは、アフリカを植民地として経営することに心血を注ぎました。1884年から翌1885年にかけて行われたベルリン会議でアフリカ分割がなされます。このときに引かれた国境線は未だに多くの禍根を残しています。
植民地化の過程で、沿岸部のイボ人とヨルバ人(とりわけイボ人)が政治的に優遇されました。彼らはキリスト教を受容し、西洋的教育の「恩恵」を受けることになりました。それに対して北部のハウサ人にはその「恩恵」があまり与えられませんでした。
ナイジェリア独立前夜にこの状況は一変します。北部(ハウサ)と南部(イボとヨルバ)は国会において同数の議席配分をする、という憲法であったのが、北部の議席数が南部の議席数を上回るように改変されたのです。これは有権者数によって決定されたと言われていますが、有権者数水増しも疑われています。
かくして、これまで劣勢であったハウサ人が形勢逆転したのです。
教育格差、経済格差が全く是正されないまま、議席数が逆転したことでナイジェリアの悲劇ービアフラ内戦は勃発しました。
「ビアフラの悲劇」―ビアフラ内戦
きっかけはイボ人の将校によるクーデターでした。彼ら北部出身の要人を殺害し、イボ主体の政権を築こうとしました。これに対して、各地でイボ人に対するジェノサイド(大量虐殺)が生じます。
これにたまりかねたイボ人は、自分たちを守ってくれぬ国ならば離脱する、という名目においてビアフラ共和国としての独立を宣言しました。2年半の戦闘の後、200万人を越えるという戦死者、餓死者を出して、ビアフラ軍は無条件降伏します。
その後のナイジェリアはいくつものクーデターと民政を経験しながら、今日まで歩んできました。南部の石油に依存する経済状況は未だに変わっていません。南部の経済的優位に対する北部の政治的不満はなくなりません。
「ボコ・ハラム」という組織が意味するもの
「ボコ・ハラム」(「ボコ」はハウサ語で「偽りの」、「ハラム」はアラビア語で「禁止」)という名前を聞いたとき、初めに感じたのは、単なるイスラム過激派組織ではなく「ハウサ人」(ナイジェリア北部とニジェール南部の地域を中心に居住する民族)イスラム過激派組織ということでした。彼らは単にイスラム教をよりどころにして活動しているわけでなく、自分たちが「ハウサ人であること」を強烈に意識している様子がうかがえます。こうなってくると「イスラム教徒」というのはただの理由付けであり、アッラーの都合のいいところだけを自分たちの活動に当てはめていると言えるでしょう。(ボコ・ハラムについては「ボコ・ハラムとは何者か?*2」ナショナルジオグラフィック公式日本語サイトに詳しい)
*2:「ボコ・ハラムとは何者か?」 2014年05月08日 『Yahoo!ニュース』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140508-00000003-natiogeog-int
また、注目すべきは彼らの活動の同時代性です。私自身の周囲では「未だにこんなことやってるなんて・・・」と彼らの愚行を非難する方が多いのですが、彼らは今だからこそ、このような卑劣な犯行に及んでいると言えると思います。彼らは政府が力を注ぐ世界経済フォーラム・アフリカ会議に合わせて犯行に及びました。奇しくもその数日前には隣国カメルーンのヤウンデにて第5回東京アフリカ開発会議(TICAD V)のフォローアップ会合が行われていました。
西洋式とアフリカ式の間で
これらの会議において「教育」というのは、支援プログラムの重要な要素として位置づけられるでしょう。私たちは「教育」と聞いただけで、なにやら学校があって先生がいて教室があって・・と想像すると思いますが、それは私たちの中に無意識に西洋的教育が根付いているからだと思います。ですが、教育とは学校だけで繰り広げられるものだけでなく、年長者から年少者へ語り継がれることも教育なのです。それが、ウシの飼育法であっても、作物の育て方であっても、神様の信じ方であっても、ある社会の一員を育て上げるために教えられることはすべからく教育と言えると思います。
実は私自身昨年開かれたTICAD V学生サミット(TICAD Vの本会合へ向けてアフリカ人留学生と日本人学生で提言書をつくるというもの)において、「教育」分野を担当していました。そのときのコメントとして私はこう述べていました。
教育は国家形成において要になる。
というのも、教育は国民のナショナリズム形成には欠かせないからだ。また、都市においては教育を受けたか否かで職を得られるかどうかという、生活に直結する問題もある。そもそも、アフリカ地域には各地で脈々と築かれた「伝統教育」がある。これらは、主に口承で伝えられ、その地域や集団に根付く知恵やしきたりが色濃く残っている。
一方、19世紀以後にアフリカに入ってきたヨーロッパ式の「近代教育」は、大規模で普遍的なナショナリズム創造が重視され、国家形成のための教育となっている。双方の教育をどのように融合させるのかというが、アフリカ地域の教育を考える上で1番の悩みどころである。
こう書いておきながら、次のように続けました。
しかしながら、本サミットにおいては学校教育に重点をおいた。
これはいささか「伝統教育」を軽視しがちなのは言うまでもなく、この点において不完全な提言であることは認めざるを得ない。
私はもはや確信犯的に伝統的な教育を無視して、いわゆる「西洋的教育」にのみ焦点を当てていました。私以外の日本人学生も、またアフリカ人留学生でさえも、「西洋的教育」に焦点を当てることに関して何の意義も唱えませんでした。私たちはこうして「ボコ・ハラム(西洋式の教育禁止)」という主張を考慮しないまま提言書作成をしていました。そして、その提言書に私たちはある程度満足し、社会的インパクトを実感できたのもまた事実です。
そして、今回「ボコ・ハラム」のニュースが世界中を駆け巡るようになったとき、ようやく私は自分の過ちに気づいたのです。
私はある面で「ボコ・ハラム」に対して共感に近いものを感じます。もちろん、狂気的な殺戮行為や本来のイスラム教を冒涜するような言動にはみじんも共感しません。ですが、彼らの異常とも思える西洋化に対する拒否(その反動としてのアッラーに対する執着)は理解できなくもありません。
私はアフリカ史を学ぶ中で、西洋的学問の範疇でアフリカ史を語ることの限界を常々感じてきました。西洋とアフリカにおける「歴史」の概念にはかなりの乖離があることがわかったからです。西洋的学問の範疇でアフリカ史を語ろうとすると、どうしても周縁化された人々の歴史になりがちです。だからこそ、アフリカにおける「歴史」という概念をもとにアフリカ史が再編される必要性があると思うのです。これは今ある「歴史」という概念をいったんぶちこわして、「新しい歴史」を築くということになり、あまりに非現実的だと思われるかもしれません。ですが、そうしなければ、いつまでたっても西洋的学問の中でしかアフリカ史が語られないのです。
となると「ボコ・ハラム」(西洋的教育の禁止)とまではいかなくても、西洋社会がアフリカ的教育を受け入れる寛容性が求められると思います。現にそれがなされていない閉塞感がこの事件の理由のひとつではないのでしょうか。
「ボコ・ハラム」の男たちから日本社会を照射する
最後になりましたが、少し日本のことについても書きたいと思います。
「ボコ・ハラム」にみられるような少女の監禁と人身売買に近いことは日本社会でも行われているように思います。たとえそれが力による拘束でなくても、経済的に拘束して、または精神的に拘束して「性的奴隷」として扱われています。「ボコ・ハラム」が少女たちを売買できるのは買い手がいるからです。日本でも同じように愚かな買い手がいるから、そしてその買い手となる層が日本の社会をつくっているから身体を売らざるを得ない少女たちが再生産されるのです。
風俗や援交で女性の身体を買うことはレイプです。また、恋人や夫婦間でもレイプは成立しえます。日本人男性にはこの当たり前のことが理解できていないように思います。「金を払えばヤらせてくれる」というのは、「ボコ・ハラム」の男たちが持つ卑劣なジェンダー観とどこが違うでしょうか。
私は拘束された少女たちの無事を祈るとともに、日本社会に拘束され続けている少女たちのことを思わずにはいられません。
参考文献
赤坂賢「第五章 ニジェール川世界」宮本正興・松田素二編「新書アフリカ史」(講談社 2004)
戸田真紀子「第十五章 4-ビアフラ戦争の悲劇」宮本正興・松田素二編「新書アフリカ史」(講談社 2004)
Twitter: https://twitter.com/susumuafrica
執筆: この記事はSusumuAfricaさんのブログ『アフリカさるく紀行』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年05月16日時点のものです。
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