暴力の本質を衝くS・A・コスビーのデビュー作『闇より暗き我が祈り』

暴力の本質を衝くS・A・コスビーのデビュー作『闇より暗き我が祈り』

 そうか、これがS・A・コスビーのなまの怒りなのか。

『闇より暗き我が祈り』(加賀山卓朗訳。ハヤカワ・ミステリ文庫)は、犯罪小説の原点に返ったような研ぎ澄まされた作品であった。

 コスビーの本邦初訳は2020年に発表した長篇の『黒き荒野の果て』である。強盗から足を洗って堅気になった男が金のために再び悪事に手を染める物語で、これも犯罪小説の定型を綺麗になぞった作品だった。続いて訳されたのが2021年発表の『頬に哀しみを刻め』で、一気にプロットが複雑化、さらに暴力と理性の間で揺れる心理が詩情さえも含んだ文章で綴られるようになり、小説としての深度が増した。この二作はどちらもアンソニー、マカヴィティ、バリーの三賞を獲得している。2023年の『すべての罪は血を流す』では主人公を警察官に設定し、正義のため法を守らなければいけない公の立場と、非道な行為に対して暴力に結びつく怒りを燃やす私の心とが葛藤を起こすさまを描いた。ここまでの版元はハーパーBOOKS、訳者はすべて加賀山卓朗である。

『闇より暗き我が祈り』で初めて邦訳書の版元が代わったが、訳者は同じ加賀山のままだ。これは賢明な判断だったと思う。本作はコスビーのデビュー作だからだ。率直に言うなら粗削りで、第二作以降の洗練度こそないが、逆に無加工の状態で感情が突き付けられることによる熱がある。舞台となるのは南部ヴァージニア州の田舎町で、アフリカ系アメリカ人のネイサン(ネイト)・ウェイメイカーという青年が主人公だ。敬虔なキリスト教徒が多く、礼節を重んじる人々が多いが、一方で非白人に対する偏見が根強く、有色人種を差別する態度があからさまな土地柄でもある。そこに黒人の主人公を、しかもあることが理由で心の中に怒りの炎を燃やしたままの人物を投げ入れたらどうなるか。剥き出しの暴力の匂いが初めから濃厚である。懐かしい、前世紀に読んだ犯罪小説の雰囲気が漂っている。

 ネイトはいとこの経営する葬儀社で働いている。ある日彼は、二人の老婦人と一人の若い女性の訪問を受ける。老婦人たちは地元のニュー・ホープ・バプテスト教会の信者だ。二週間前、そこで働いていたイーソー・ワトキンス牧師が死んだ。若いころの彼は、Eマネーの異名を持つ悪党で、窃盗犯であり故買屋であり、麻薬の密売人でもあった。そんな男が回心して牧師になっていたのだ。保安官事務所はイーソーの死を自殺として片付けたがっているが、信者の二人は納得していなかった。ネイトに真相を調べてもらいたいというのである。彼が、元保安官補だったからだ。

 保安官補の肩書に元がついた直接の原因は、ネイトの両親が変死した事件に関係があることがすぐにわかる。腐敗した保安官事務所は権力者におもねってそれをもみ消したのである。そのことに対するネイトの怒りはもちろんまだ消えていない。

 老婦人たちと一緒に来た若い女性の名はリサ・ワトキンス、死んだ牧師の娘だ。彼女の語る物語は、ネイトの怒りに火を注ぐ役割をする。ネイトとリサの関係が一つの軸になって話は進んでいくのだが、ヒーローとセクシーな美女という取り合わせは現在の視点からすればやや紋切型である。それも承知でコスビーは人物配置しているのだろう。本作には1970年代の黒人を主人公とした娯楽映画、ブラックスプロイテーションの要素が意図的に取り込まれているような気がするのだ。

 紋切型といえば、ネイトの友人で彼を助けるスカンクという犯罪者の存在もそうだ。スカンクはあえて聞いたら絶対後悔するような重罪をいくつも犯している人物で神出鬼没、ネイトの要請に応えて現れる。ネイトは携帯電話にスカンクの番号を、ソシオパスの名称で登録している。これはスペンサーとホークの関係、懐かしの1980年代型タフ・ノヴェルではないか。

 正義を自認する人間が暴力を行使するだけなら、それを正当化するだけなら物語は幼稚なものになってしまう。本作がそうなっていないのは、ネイトが暴力に魅せられ、そのために道を踏み外した人間であることを自覚しているからだ。物語中盤で明かされる、ある事実によってその歪みは決定的なものになる。リサに自分と同じ歪みを見たネイトは考える。

—-おれたちは、ほかの人たちとはちがう。自分のなかにためこんだもののために動けず、先に進めない。ほかの知り合いがみなまわりの人とつながるのを、サイドラインから見ているしかないのだ。彼らが本当の意味で親しくなるのを見ているしか。おれたちにできるのは、安いホテルの部屋できつく抱き合い、自分は壊れていないふりをすることだけだ。

 実はリサとネイトは同じ立場ではないのだが、心の平穏を過去に失った者ということなのだろう。ネイトはリサと同じで心を傷つけられた者だが、事件の以前から彼の中には暴力への衝動があった。15歳のとき、彼は自分をいじめの対象にしようとした白人の少年を叩きのめし、重傷を負わせた。暴力を否定する父親は彼の行為を悲しんだが、母親は、暴力が唯一の選択肢となることもある、そもそも現実の世界はフェアではないのだから、と理解を示した。

「たぶんお父さんもお母さんも、あなたを肌の色に関係なく育てれば、世間もあなたをそういうふうに扱ってくれると思ってたのね。でもそれは思い上がりだった」

 でもそれは思い上がりだった。この悲痛な呻きがコスビーの根底にある。暴力は個人の中から生まれるが、社会がそれを誘うのである。

 ネイトが暴力を行使する場面がいくつか描かれる。その中のネイトは、非常に無機質で、感情を喪っているように見える。そもそもそれを持っていないようにも見える。

—-トレーラーヒッチ男が、今度はおまえの番だとか意味不明のことばを叫びながら襲ってきた。おれにもうその声は聞こえなかった。頭がずきずきして世界から色が消えていた。眼に見えるすべてが地味な白黒のパレットになっていた。

 人間から人間性を剥奪するもの、それが暴力だ。この作品でコスビーは、暴力に訴える人間の側の心理に分け入り、それを描こうとしている。粗削りであり、あるときは見世物のように安っぽいが、暴力の本質を衝いているがゆえに決して無視できない。やはりコスビーは、出発点から特別な作家だった。

(杉江松恋)

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