『好き』を分かち合う大切さ〜奈倉有里『文化の脱走兵』

 好きなエッセイの題名を書き出してみると、翻訳を仕事にしている著者によるものが多い。遠い国に住む人々が身近に感じられるところに惹かれるのだろうと単純に思っていたけれど、ロシア文学者で翻訳家の奈倉有理さんによるこのエッセイを読みながら、もうひとつ理由があることに気がついた。異文化や言語と日々向き合い一冊の本を訳すという仕事に対して、子供の頃から本を読み続けてきた人間として、憧れのような気持ちがきっとあるのだと思う。

 著者は、子供時代の思い出や留学中にあった出来事、文学を通してつながった人々のことを描きながら、ロシア文学の魅力に触れていく。

 同級生のお父さんに「クルミが好きか」と聞かれて頷いたら、遊びに行くたびに仲間を見つけたみたいに嬉しそうにしてクルミを振る舞ってくれた。同じものを好きだというだけで肯定してもらえることを不思議に思ったというエピソードが印象的だ。他人の記憶なのにどこか懐かしいようなその思い出は、ロシアに留学していた頃の出来事につながっていく。語学学校のクラスには、様々な国からきた人がいて「国名が名刺のように」自分についてまわる。「気が重い」と感じているところに、先生はこんなことを言う。「ジルケが『ドイツ人』じゃなく、ユリが『日本人』じゃないところに、その人の本質がある」

 その後著者は、「本の虫ばかりが集まる大学」に入学する。日本人がいない場所で不安や孤独もあったのではないかと思ってしまうが、自分と同じように本が好きな人々と一緒に過ごし、寂しさを感じなかったという。「本好きの集団に囲まれているから、少しくらいたいへんなことがあっても、心の底の部分はいつも幸せ」という言葉に、私も本が好きだということでつながれた、たくさんの人々のことを思い出した。

 エッセイには、様々な人たちが登場する。同級生の中でもとびぬけて本の虫だったという同級生マーシャとは、顔もよく似ていると言われたこと、モスクワに住むマルーシャはお母さんがウクライナ人で、ドンバスに住むおばあちゃんや弁護士のお父さんが著者にとても親切だったこと、『源氏物語』を翻訳したデリューシナ先生に、一番好きな登場人物を聞いたら末摘花だったということ、いつまでも聞いていたくなるような柔らかい話し方をする語学学校のタチヤーナ先生が、著者が好きな詩の朗読テープを作ってくれたこと……。ほんの数ページ登場するだけなのに、どうしてか身近にいたことのある誰かのように懐かしさや親しみを感じる。著者にとって大切な人たちだからということに加え、私も本が好きだからなのだろうと思う。

 国籍や住む地域、考え方の違いで、親しかった人たちが分断されて行くさまを見てきた著者の言葉は重く、人々が置かれている状況は深刻だ。それでも著者は「『好き』を分かち合う」ことの大切さを、真っ直ぐに書く。文学と本の力を信じるその強い思いと、遠くにいる友を思いやり、できることに懸命に取り組む誠実さに、私は尊敬と憧れを抱く。

 エッセイを通して読みたくなったいくつもの本を、少しずつ手に取っていこうと思う。いつか、遠いところに住む本が好きな人々と会える日が来たら、読んだ小説や詩の話をすることができるだろうか。

 (高頭佐和子)

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