殺し屋・爪角の若き日の物語〜ク・ビョンモ『破砕』
爪角再び。
ク・ビョンモ『破砕』(小山内園子訳。岩波書店)は、2022年に邦訳された長篇『破果』(岩波書店)からのスピンオフ作品で、若き日の爪角を描いた物語だ。長さとしてはぎりぎり中篇ということになるだろうか。短い作品なので、小ぶりな判型のハードカバー本として刊行されている。分量こそ少ないが、ぎゅっと濃縮された内容なのでもちろん買って損はない。
主人公の爪角は、『破果』では腕利きの殺し屋として周囲に一目置かれる存在として描かれていた。ただし、もう老境に足を踏み入れており、いつか致命的な失敗をする前に、と引退を考え始める。若い後輩の男が彼女を侮るような言動をするようになり、爪角は苛立つ。暗殺業とはまったく別のところで淡い人間関係ができ、それまで完全に無視していた、普通の人間らしい感情や生活というものに気を惹かれるようになるのである。爪角の揺れを描くことが『破果』の主題であり、おそらくはそのために暗殺者という極北の設定が彼女には与えられた。爪角の手は人を殺すための武器なのだが、ネイルアートを施すことを勧められて戸惑う場面がある。そのように、身体に関する描写や、嗅覚など五感に関する表現を駆使してビョンモは爪角という主人公を作り上げた。読者が彼女を身近に感じられるようになったとき、爪角には最大の危機が訪れる。
『破果』は現在、老境の爪角が描かれるのと並行して、なぜ彼女が暗殺者になったのかという過去が綴られる構成になっていた。やむなき理由で最初の殺人を行ったあと、彼女はプロフェッショナルになる途を選ぶ。そのときに師事した男が、爪角にとっては家族以上に大事な存在になっていくのである。
『破砕』は、『破果』では詳しく語られなかった部分、職業的な駆除の専門家になるために彼女が受けた訓練のさまが描かれた作品だ。緊迫した場面から物語は始まる。覚醒したというのに視界は黒い闇に覆われている。目隠しをされているのだ。後ろ手に縛られ、足首を結束された状態で彼女は転がされているらしい。暗殺者となるためのすべを学ぶため、師事した男とともに彼女は山籠りをしていた。男の身に何かが起きたのか。そして、自分を縛ったのはいったい誰か。何が起きているのかを考えながら彼女は、脱出のための行動を起こす。
こうした事態の中で訓練の様が回想されていくのである。まったくのアマチュアがプロに「なるまで」を描いた小説というのはこれまでにも多数書かれているが、ディテールの詳細さ、そこで語られる行動哲学の確からしさという点で、本作は過去作と十分肩を並べられる水準になっている。
棒を持って男に襲い掛かるように言われた彼女だったが、簡単に反撃され、大地に叩き伏せられてしまう。男は言う。
—-考え続けてもいい。だが、考えに溺れちゃダメなんだよ。
考えに溺れるというのはどういうことなのだろうか。だが、その意味を十分に咀嚼する時間は与えられない。「三秒あげますから、立ってください」と促した男は、再び自分に襲い掛かってくるように命じる。そしてまた猫が獲物を弄ぶようなゲームが始まるのだ。
こうした訓練の模様が緊迫感のある文章で綴られていく。それがすべての作品だ。男の教えは彼女の体に痛みとともに刻み込まれていく。動きがすべての作品で、二人の交わす言語以上に動作が雄弁である。彼女がしているのは暴力を振るうための準備であって、どのようにすれば自分が傷つくことなく相手を痛めつけることができるかを学ばなければならない。この授業は言うまでもなく、彼女が生き延びるすべを会得しきったときに終わるだろう。
彼女にとって導師となる男のキャラクターにも引き込まれる。男は九割は罵声を浴びせてくるが、ごくたまに丁寧な言葉遣いで彼女に接することがある。それはなぜかと聞かれ、「自分のためだ」と答えた。
—-いま、お前は未熟で、都合上仕方なく俺の支配下に置かれてる。だからって、それにかこつけてやたらなマネをしちゃいけないってことを忘れないように、ときどきな。もし、お前がのろのろしてるのにキレて、致傷だの致死だのをやらかしたら、お互い困るだろ。下山したらお前は俺と同じ業者なんだから、わざわざそんなマネをすることはない。
無駄なことはしない、無駄な暴力を振るわないというのはプロフェッショナルの犯罪者を描く小説の最も重要な点だと思っている。犯罪小説の金字塔である、リチャード・スターク〈悪党パーカー〉シリーズがそうだった。プロの強盗であるパーカーは、自分を裏切りでもしない限り、一切仲間に暴力は振るわない。逆に、相手が自分にとって有害な存在だと判断したら、無力な一般人であっても容赦なく命を奪う。そうした、犯罪者の機能美が重要なのだ。ク・ビョンモの小説にはそれがある。
『破砕』という題名は、たぶん以下の文章から採られているのだと思う。彼女が、自らの意志で拳銃を手に取り、発射する場面である。その瞬間に彼女は、偶然の殺人者から職業人としてのそれになる。
—-彼女は、両手の中で一つの世界を握り潰してしまう。世界はわずか一度の銃声によって、押し潰された果実のように簡単に砕け散る。その破裂音が雷のように耳を弾くが、彼女は音に屈しない。目がヒリつく。これで何も取り戻せず、どこへも戻れなくなった。
トリガーを引くことによって致命的な損傷を対象に与えられる弾丸が銃口から飛び出す。その取り消すことのできない暴力性を、ク・ビョンモはこのように表現した。どこにも緩みのない、硬質の文章だ。プロフェッショナルの犯罪者を描く小説は、こうした文章で綴られるべきなのである。
(杉江松恋)
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