悠久の叙事詩〜オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』

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悠久の叙事詩〜オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』

 第二次大戦前におけるSFの最重要作家を数えるなら、H・G・ウエルズの次にステープルドンの名をあげなければならない。世代的にはウエルズが1866年生まれ、ステープルドンが1886年生まれで、二十歳の開きがある。ともにイギリスの作家であり、アメリカで隆盛するジャンルSFとは無縁の地点で創作をおこなった。彼らが残したのは想像力と哲学の文学である。

『最後にして最初の人類』は1930年に発表された長篇。遠未来の人間(最後の人類)が現代へ思念を送り、それを霊感と感じた筆者(最初の人類)がこの作品を書きとめているという体裁で、二十億年にもおよぶ人類の未来史が語られる。種としての人類が繁栄と没落を繰り返しながら、幾段階もの変貌(生物学レベルでの)を経ていくのだ。地球ではじまった歴史はやがて金星や海王星へと場を移し、人類存続の僅かな可能性を太陽系外へと託すところで幕を閉じる。

 固有名詞を持った登場人物はほぼ登場せず、通常の意味での物語性は一顧だにされない。人類史の各ステージを描くうえで繰りだされるアイデアは、ゆうに何百篇ぶんのSFに相当する。未来史の記述は、現代に近いほど詳細であり、先へ進むにつれて速度を増す。時間目盛が対数的にスケールアップするのだ。もちろん、どの時代においても文明と文化が前進するそれなりの過程があるのだが、ある時点をすぎると〔その達成の大部分は本書が想定する読者にはまったく理解できないものだ〕とあっさり突き放される。つまり、現代のわれわれの知識・知能では追いつかないステージへと突入してしまうのだ。

 どこまでステープルドン本人の思想が反映されているかはわからないが、この未来史において、科学や芸術は長期的にみれば、螺旋を描くように発展していく。〈第○期人類〉と呼ばれるように、旧種人類が滅び新種人類があらわれるので、そこで空隙が生じるのだが、知識は再発見されて積み重なるようだ。

 しかし、善性や対応力や生命力は、かならずしも上昇するわけではない。その期の人類ごとに脆弱な部分があり、内的要因や外的要因によって種の衰退につながっていく。いま、脆弱な部分といったが、それはいちがいに長所や短所と決められないものだ。たとえば、〈第二期人類〉のとき火星人が地球へやってくるのだが、生命としてのありようがあまりにかけ離れているため、互いに相手を知性的な存在と認識できない。そのため、奇妙な侵略と撃退が長引くことになる。〈第二期人類〉と火星人との違いについて、次のように述べられる。

〈第二期人類〉は、精神の一貫性、集中力、深遠な分析と総合、強烈な自己意識と絶え間ない自己批判を有しているが、内輪揉めや憎悪が絶えることはなかった。

 火星人は、利己主義や他者からの精神的孤立は免れており、非の打ち所のない調和を保っていたが、豊かな多様性を欠き、愛情はほぼ欠落していた。

 これは人類と火星人の対照だが、各期の人類の違いもこれと同様に甚だしい。つまり、生物にとって進化の頂点などなく、知性体が精神的に完成することもなく、環境の変化によって栄枯盛衰がめぐっていくさだめなのだ。

 悠久の叙事詩。これに匹敵するスケール(物理的なことがらではなくヴィジョンの高さにおいて)のSFは、ステープルドン自身がのちに発表した『スターメイカー』(1937年)のほか、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』など数作品に限られるだろう。

(牧眞司)

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