ドタバタから詩情豊かな作品まで〜池澤春菜『わたしは孤独な星のように』

ドタバタから詩情豊かな作品まで〜池澤春菜『わたしは孤独な星のように』

 声優・書評家・エッセイスト……さまざまな表現の領域で活躍している池澤春菜の、小説家としての最初の著書。SF短篇七作品が収められている。

「糸は赤い、糸は白い」は、ひとびとがキノコとの共生によって、他人との共感能力を得るようになった世界。その能力はマイコパシーと名づけられた。新しい社会調和が成立するが、人間の悩みや迷いがすべて解消されたわけではない。キノコの移植は第二次性徴後におこなわれる。語り手のわたしは、マイコパシーを得れば親友のコッコとより深いつながりが得られると期待している。身体の不可避的な変化と、思春期ならではの心の揺らぎを、驚くほど赤裸々に、しかし柔らかい筆致で綴った、異色の青春小説。

「祖母の揺籠」は、ポストヒューマンSF。環境激変によって人類が身体を変容させ、海へと生活を移す。いまはクラゲのような生態だ。主人公は海に入った卵子提供者で、おびただしい数の子を残している。海の子どもたちに個人名はなく、世代ごとの呼称(第一世代がイチカ、第二がニキ、第三がミヨウ)があるだけだ。わたし自身ももう名前がなく、ただ祖母とだけ自覚している。その祖母が人間だったころの記憶をたどっていく。通常の意味での人間性が通用しなくなった世界の情景を描きつつ、淡い情緒性が残る作品だ。

「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」は、アクセルを踏みきったドタバタSF。ダイエットにかける情熱が、宇宙規模のスケールへエスカレートとしていく。

「宇宙の中心でIを叫んだワタシ」は、その続篇。宇宙人と意思疎通するため、全人類が声優の役目を負うようになる。正確に言うと、声優ではなく声俑というまったく新しい役割だ。各自の声質がひとつの意味を受け持つ。売れっ子声俑は「わたし」という意味を、末端声俑の主人公は「豆腐」といった具合。筒井康隆「関節話法」を彷彿とさせる、異知性とのコンタクトをテーマとしたユーモアSF。

「いつか土漠に雨の降る」も異知性とのコンタクトを扱った作品だが、うってかわってオーソドックスなスタイルだ。南米の高地に棲息する齧歯類ビスカチャが謎を解くカギとなる。

「Yours is the Earth and everything that’s in it」は、AIと仮想現実が発展・普及した世界で、その波に乗れずひっそり暮らす村のありさまを描く。扱われる状況やテクノロジーは現代的だが、小説のたたずまいとしては50〜60年代、F&SFやギャラクシーに掲載された良質な短篇SFの匂いが感じられる。

 表題作「わたしは孤独な星のように」は、シリンダー型の宇宙コロニーが舞台。そのコロニーは人口減少によって滅びつつある。寂寥感が全篇に立ちこめているが、それは絶望ではなく、静かな安寧とさえ呼べる。わたしは亡くなった叔母を弔うため、叔母の友人レタリアとともに小さな旅に出た。その経緯が大きなドラマもなくカタルシスもないまま、淡々と語られる。ゆるやかに詩情が流れる佳作。ヴァンス・アンダール「広くてすてきな宇宙じゃないか」を思いだした。

(牧眞司)

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