心の奥にある仄暗い物を描く井上荒野の短編集『錠剤F』
井上荒野氏の短編小説がすばらしいことはよくわかっていたはずだが、今回もやはり驚愕してしまった。刺激的な言葉が使われているわけではない。超常現象が起きるわけでもない。むしろ淡々しているのに、どうしようもなく怖くて苦しい。よく知ってるはずの場所を歩いていたら、なぜか道がなくなっていて途方に暮れるような、長く住んでいた家の土台が実はスカスカだったことに気がついてしまったような……。いったいどうすればいいのか、と叫びたくなるような気持ちになる。全ての短編について書きたいくらいだが、規定字数を超えてしまうので二作だけ紹介したいと思う。
「刺繍の本棚」の主人公・鈴子は刺繍作家である。ある日、夫と夕食を食べようとしているところに、二人の背広姿の男がやってくる。夫は彼らに連れて行かれたまま戻ってこない。結婚して21年間、夫が隠し続けていた恐ろしい事実が発覚してしまったのだ。二週間後、ギャラリーで鈴子の個展のオープニングパーティが開かれる。今回いちばんの大作は、古本屋である夫の本棚が置かれた部屋を刺した作品だ。夫が何をしたのかを、知る人も知らない人もいる中で、鈴子はマイクを持ちスピーチをする。
人々の戸惑いと悪意と、得体の知れない狂気にさらされる痛み。困惑と恐怖、虚しさと、どこにぶつけていいのかわからない怒り。情景と感情の描写が細かく積み重ねられ、主人公の荒く苦しげな息遣いが、のりうつってくるようだ。
「墓」の主人公は、都市部から小さな町に引っ越し、古い家をセルフリノベーションして暮らしている若い夫婦だ。取材を受けることになり、外壁を塗っていたところ、トラ猫がやってきて、1年前まで飼っていた猫・テルの墓の上に座り込む。体の模様はテルと同じだ。すぐに妻の腕に抱かれてリラックスし、夫が撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。間違いなくテルだ、と二人は思う。が、墓はそこにある。隣人と取材者には、そっくりの猫がきたので飼うことにしたのだと説明をする。
死んでしまった猫が帰ってきたと思いたいだけで、よく似た別の猫? それとも、あの世から甦ってきた亡霊猫? 二人だけが知る真実はそれとは別のところにあり、やがて思わぬ出来事が起きる。
本当は小さな綻びに気づいていたのに、見ないことにしてきてしまった後悔。悪夢を見ているみたいなんだけど、残念ながら現実という絶望。そういう経験、私にはある。誰にだって、一度くらいはあるのではないだろうか。だからこそ、主人公たちの心の動きから、目が離せなくなってしまう。井上荒野氏は、心の奥にある仄暗い物を、決して見逃させてくれない作家だと、改めて思う。
(高頭佐和子)
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