あなたの数学のイメージは覆される――。数学者の美しき日常を切り取ったノンフィクション
あなたは学生時代、数学が得意、もしくは好きだっただろうか? ちなみに私は数式記号を見ただけで思考が停止するほど根っからの文系気質だ。しかし世の中には「数学者」という驚くべき職業がある。数学者に対して「クールで論理的な学者が数学の難問をただひたすら考え続ける」という勝手なイメージを抱いていたのだが、今回ご紹介する書籍『世にも美しき数学者たちの日常』(幻冬舎文庫)を読んでその思い込みを覆された。
「数学について勉強することは、人間について勉強することだと思います。数学というのは、実に人間的な、人間臭いものなんですよ」(同書より)
同書を執筆したのは小説家である二宮敦人氏。「数学者とはどんな人たちなのか?」という素朴な疑問をもとに、数多の数学者たちの話を聞きに行き、その本質に迫ったノンフィクションである。
数学が人間臭い、と語ったのは東京工業大学教授の加藤文元氏だ。数学者は未だ解かれていない難問を解くだけが仕事ではない。数学が発達した理由や、現代ではなぜギリシャ式の数学技法が主流なのかなど、人間を軸にした疑問も数多くある。そもそも数学は人間が作ったもの。そんな当たり前のことすら気づきにくくさせてしまう数学とは確かに不思議な存在だ。
芸術や文学は人間味が溢れる感じがするのに対し、数学はなんだか冷たい印象を受ける。しかし九州大学準教授(取材当時/現・東北大学教授)の千葉逸人氏は、「数学も芸術的なのだ」と話す。
「芸術に近いかもしれない。オリジナリティというか、『個性がすべて』になっちゃうんですよ。(中略)だから教えられないんです」(同書より)
数学には「ひらめき」や「非論理的な跳躍」が不可欠なのだという。「数学的なセンス」ももちろん必要だが、それは芸術だろうが文学だろうが同じことだろう。そもそも数学の何が苦手なのか? と考えたときに思い浮かぶのが、公式の煩雑さや証明の難解さではないだろうか。しかし我々が学生時代に学んだ数学は、かつての数学者たちが「どうしたらわかりやすくなるのか」と考えあぐねた末の解答だったことを忘れてはならない。
さらに興味深かったのは、現地点でのAIでは数学の問題を解くのが難しい、という事実だ。これは「数学の全体が矛盾しないということを、数学的に証明できない」という不完全性定理の解釈からくるという。つまりAIは数学の体系的な矛盾点に突き当たってしまうと、そこでつまずいてループを繰り返す。単純に機械的な計算をしても数学はできないのだ(ただ、これからAIが発達していけばこれらの問題をクリアする可能性も十分有り得る)。数学が人間にしか解けないものだとしたら――。まさに「人間臭さ」を感じないだろうか?
同書で数学について語るのは大学教授ばかりではない。数学教室を生業としている松中宏樹氏をはじめ、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑い芸人と高校教諭を掛け持ちしているタカタ先生(芸名)も数学について愛を込めて語っている。
特に印象に残ったのは、当時中学生にして数学者たちから「天才」と賞讃された通称”ゼータ兄貴”だ。ゼータ兄貴が没頭しているのは数学だけではない。物理や語学にも興味があるというが、もともと語学は論文を読むために学んでいたものであった。しかしフィンランド語の響きの美しさに魅了され、現在では楽しみながら語学を学んでいるという。
「今は何か問題を解くとか、新しい数学を作るとかそういうもののためではなくて、自分の考えを形成していく手段の一つとして、数学や言語とか、勉強している感じですね」(同書より)
ゼータ兄貴は数学だけではなく、さまざまな物事の本質を見極め、掴み取る能力があるのだろう。ちなみにゼータ兄貴は楽譜なしでピアノも弾ける。二宮氏は「音楽の本質が楽譜にないのと同じだ」と説き、ゼータ兄貴はより本質のほうへ、深いほうへと向いているのだと語った。
「言語も音楽も、もちろん数学すらも、数学である」(同書より)
二宮氏が、同書の最後で数式について述べていた言葉も印象的だ。
「数式がこの世に存在する理由はたった一つ、誰かとわかり合い、分かち合うためである。拒絶するような冷たさに満ちたあの数式は、本当は僕たちに差し出された掌(て)だったのかもしれない」(同書より)
文系の人が良い本を薦めるように、数学者たちは数学の奥深さを教えてくれる。「本質を知る」という意味ではどちらも同じなのかもしれない。そんなことを考えさせられる一冊だった。
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