不安に満ちたドキュメンタリー・ノヴェル〜ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』

不安に満ちたドキュメンタリー・ノヴェル〜ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』

 ジョセフ・ノックスは不安の作家である。

 新作『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)は700ページ近い大部の作品で、手にするとその重さに圧倒される。心をかき乱される小説で、読んでいる間はずっと部屋の隅に誰かが潜んでこちらを監視しているような感覚に悩まされた。人間の闇を表現した作品だったからだと思う。

 ノックスのデビュー作は2017年に発表した長篇小説『堕落刑事 マンチェスター市警エイダン・ウェイツ』(新潮文庫。以下同)である。麻薬組織撲滅のため潜入捜査を行った主人公エイダン・ウェイツが法の埒外に出てしまい、警察からも犯罪者の側からも疎まれる存在となる。いったんは堕ちるところまで堕ちたエイダンがそこから這い上がるまでの物語で、ミステリーの謎解きが彼の再生過程の中で大きな意味を持つプロットが印象的だった。続く2018年の『笑う死体』ではさらに、エイダン自身の過去が捜査する事件と同等の比重を持ち、一つの物語で二つの謎が語られることになる。

 過去の呼び声に絶えず悩まされるというのがエイダンの特徴で、三部作の掉尾を飾る2019年の『スリープウォーカー』では、そのためついに決定的な危機に瀕することになる。探偵が安全地帯におらず、生命を脅かされながら捜査を行うことになるという図式は同シリーズの専売特許ではない。たとえばジョー・ネスボのような先行例があるのだが、ノックスは主人公が徘徊することになる闇の深さを強調し、そこから抜け出すことはできないのではないかという感覚を絶えず読者に味わわせることによって、作風の独自性を獲得した。ノックスを読むと不安になるのである。

 さあ、そこで『トゥルー・クライム・ストーリー』だ。ノックス初のノンシリーズ作品で、2021年に発表された。疑似ドキュメンタリー・ノヴェルの構成を持っており、事件の関係者証言だけで本文は構成されている。その書き手はイヴリン・ミッチェルという作家であり、彼女が原稿についてノックスに相談を持ちかけているという設定だ。その二人が交わすメールのやりとりが随所に挟み込まれる形式をとっている。

 ミッチェルが調べているのは、マンチェスター大学に通う19歳のゾーイ・ノーランが、2011年12月17日の未明に学生寮からいなくなり、そのまま行方がわからなくなったという事件である。彼女は音楽で身を立てる夢を持っていて、誰からも注目される存在だった。双子の姉であるキンバリーと一緒に故郷を出て、三ヶ月タワー型の学生寮で暮らした後に失踪したのである。ゾーイは未発見であり、事件は公式な解決を見ていない。取材を進めるミッチェルに対しノックスは、彼女なりの解決を呈示しなければ作品は中途半端なものになるだろうと助言を送っている。

 ミッチェルの原稿を読み始めた途端、読者は苦いものを無理矢理口に詰め込まれたような感覚を味わうはずだ。誰からも愛されたゾーイを姉のキンバリーは嫉妬していた、という残酷な見方が呈示されるからである。キンバリーによれば、妹が失踪する直前、彼女も覆面をした男たちに誘拐されかけたのである。車に乗せられてしばらく経ったところで、男たちは手違いに気づき、さんざんに脅しつけてから解放した。その恐怖があったために、事実を公表できなかったのだとキンバリーは言う。しかし口さがない者たちは、自分にも注目を集めたい哀れな姉の虚言だと彼女をこき下ろす。こうした相互不信が物語の基調になっている。誰もが他者に対して辛辣で、言葉を信じていないのである。読者もこの空気に巻き込まれ、何が正しいのかまったくわからなくなっていく。

 キンバリーがゾーイを嫉妬していたというのはおそらく事実だろう。双子でありながら、そもそも家族の中でさえ公平な扱いをされてこなかった。両親、特に父親のロバートが愛情を注いだのは圧倒的にゾーイの方であった。マンチェスター大学に姉妹を同時に進学させたのも、キンバリーが保護者としてゾーイの面倒を見るのが前提だったのである。この父親の示す愛情の形は執着といってもいいほどで、これが後に禍いの種になっていく。

 マンチェスターにやってきたキンバリーとゾーイが住んだのはタワー型の学生寮で、ここでの暮らしは平穏からは程遠いものだった。盗難が多発し、ゾーイも下着を盗まれる。安心して過ごすことができないタワーは、まるで妖怪屋敷のようだ。ドラッグ売買や、セックスの絡んだ恋の鞘当てなど、ありとあらゆるたぐいの醜聞がタワーの日々で描かれる。その中で、人間関係の歪みが増幅していくのである。たとえばジャイ・マムードという学生は、はじめ写真家として身を立てようと考える前向きな青年だった。だが、有色人種であることを理由に謂れのない罪を着せられ、ひどい私刑を受ける。街の警察官もそれに加担しているため、救いは一切ないのである。偏見とそこからくる暴力によって心を汚染されたジャイは、麻薬売買に手を染めるようになる。痛ましいことだが、彼の堕落はほんの一例だ。タワーはまるで負の感情を増幅する装置のようである。

 イヴリン・ミッチェルはプロローグでまず失踪当夜を描き、過去に遡って運命の日にだんだん近づいていくという構成を取った。ゾーイの失踪がおぞましいのは、彼女がいなくなった後で、それまで隠されていたことや、関係者たちの秘めた一面が次々に明るみに出るからである。互いの心を傷つけあうようなやりとり、崩壊していく人間関係が証言の連なりによって表現される中盤から後半にかけての展開は圧巻だ。事件は少しも解決に向かう兆しがなく、関係者たちを囲む世界がどんどん自壊していくのである。失踪という事件がそうさせたというより、ゾーイの不在によって安全弁が外れ、全員が本性を剥き出しにした結果と言うべきだろう。どこまでいっても悪意、悪意、悪意。むしろ心地いいほどに悪意ばかりだ。

 物語は投げっぱなしで終わらず、真相は一応明らかにされる。一応、と書いたのは、闇のままに捨て置かれる要素が多いからだ。真相に進む道筋から枝分かれして起きた出来事の中には、明確な解答が示されずに終わるものもある。中盤を少し過ぎたところで本筋とは無関係に見える出来事が起きる。それがどのような意味を持っているのかは読者に判断が任されているのだが、ノックスの語りは読者に確かな視座を与えてくれないので、どんな解釈をしたとしても不安が残るのである。読み終えてから全体に目を通し直してみると、随所に疑心暗鬼の元凶となりうる記述が置かれていることに気づく。唯一の正答に読者を辿り着かせることを目的とした一般的なミステリーとは何から何まで異なるのである。

 上に書いたことは作者の最も大きな企みについてぼかした形になっている。ページを繰り始めた瞬間に、何かおかしなことが進行しているという感覚を読者は持つはずだ。すぐにわかることなのでここには書かないし、一体何が起きているのかと怪しみながら読んでいただくのがいいだろう。サスペンスという技法が不安の感情を醸し出すためのものだとすれば、本作はその極北のありようを示したと言っていい。ノックス、すごいことをやる作家だ。でもお友達にはなりたくないな。

(杉江松恋)

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