この凄まじいサスペンスを読め!〜デイジー・ジョンソン『九月と七月の姉妹』
このぞわぞわする気持ちを、ぜひみなさんにも。
デイジー・ジョンソン『九月と七月の姉妹』(東京創元社)は、一九九〇年にイギリス・デヴォンで生まれた作家が、二〇二〇年に発表した長篇だ。二〇一八年の第一長篇Everything Underでマン・ブッカー賞の史上最年少最終候補となったという。ジョンソンの初著書は二〇一六年に刊行された短篇集Fenで、収録作のうち二篇は岸本佐知子訳で読むことができる。『アホウドリの迷信 現代英語圏異色短篇コレクション』(スイッチ・パブリッシング)の表題作、『MONKEY vol.25』に掲載された「断食」の二篇だ。この原稿を書いたらすぐに私も本を買うため書店に走ろうと思っている。本書を読んで、気になる存在になってしまったからだ。え、この人他の小説ではどういう書き方しているの。どんな短編を書くの、などなどと。
本書の原題はSistersである。それを『九月と七月の姉妹』としたところが巧い。物語の中心にいるのはセプテンバーとジュライという名の姉妹なのである。なんだ、名前なのか、と思われたか。一見即物的な、この名前が読み進んでいくと小説の中では大事な役割を果たしていることがわかる。九月生まれと七月生まれの二人は一歳しか違わない年子の姉妹である。物語は二人と母親の家族が、オックスフォードから「ノース・ヨーク・ムーアズの片隅で浜に乗り上げたように建」っているセトルハウスという家に引っ越してくる場面から始まる。オックスフォードは南イングランドの中央に位置する歴史ある都市、新しい家は北海に面したヨークシャーの海岸に程近い地域にある。引っ越し早々、ジュライは衝撃的な事実を姉セプテンバーが告げられる。セプテンバーはこのセトルハウスで生まれたというのだ。それまでジュライは、姉妹は二人ともオックスフォードで生まれたと考えていた。その思い込みがあっさりと覆されたのだ。
――そのとき気がつく。二人が同じ場所で生まれたというのは、意味のあることだった。
十か月差。同じ病院、ひょっとすると同じベッド。一人がもう一人を追いかけて生まれてきた。セプテンバーとそれから――いっしょに生まれたと言ってもいいくらいすぐあとに――わたしが。
一歳しか違わない姉セプテンバーを、ジュライは分身のように考えている。あたかも双子のように、運命共同体のように。ここが本作の特徴で、セプテンバーとの対関係でしか自分のことを考えられないジュライの視点が全体の大半を占めるのである。
十一歳のとき、二人は一緒に日蝕を見た。太陽を直接見ることはできないので、簡単な装置を工作する必要がある。そのときジュライはカッターナイフでけがをしてしまうが、「怖くて身動きもできず立ちすくん」でいる妹の前でセプテンバーは「わざと同じことをして、笑いながら床に垂れた赤い血を見せ」るのである。ジュライは「人が差し出せる限りのものを彼女に約束」し、二人は連れだって日蝕を見に行く。この体験はジュライの中で何物にも代えがたい記憶として残る。「二人でまったく同じものを見たのはあのときだけだった――いつもそんなふうならいいのに」というように。
親密な関係は幸せだが、近すぎる距離は軋みを生む元でもある。物語の中で姉妹は次第に成長し、二人には少しずつ違った自我が宿り始める。初めはそうとわからなかったずれが次第に大きくなり、鏡像のようなセプテンバーとジュライの関係が壊れ始める。そうなってからが小説の佳境で、ジュライにとって何よりも大事な拠り所であったはずの姉・セプテンバーが常に脅威を覚えていなければならない対象になっていく過程は胸が潰れるほどの切迫感がある。聡明なセプテンバーはジュライが何かを口にしたら「言葉のあいだを深堀りして、そこに埋もれた真相を突き止めてしまう」のである。
狭義のミステリーには含まれない作品だが、なぜ本欄でご紹介したくなったかはおわかりいただけるだろう。この凄まじいサスペンスである。愛憎劇、といった紋切り型の言葉では到底表現できない。かつては我が身そのものであり、そこに心を委ねることでしか安心を得られなかった存在から少しずつ切り離され、対象として見なければならなくなる不安と哀しみが本作を貫くものだ。同性のきょうだいを主人公たちとして設定したことで、関係は純化され、自我の成長に伴う苦しみを描く小説として成立した。セプテンバーとジュライの運命が決定的に変化する場面が第一部の終りにある。「わたしは目を閉じ、拳を握って砂に埋める」という文章で終わるこのくだりはたいへん痛々しいが、たまらなく甘美な筆致で描かれている。この力量ゆえに小説に惹きつけられてしまうのだ。
本作はジョンソンの第二長篇で、二〇二〇年度シャーリイ・ジャクスン賞の最終候補作になったという。物語の運びや文体からシャーリイ・ジャクスンの影響は感じられたが、作者はセプテンバーに対するジュライのように憧れの存在から自分をもぎ離し、自身の小説を書くことに成功している。
美しく、かつ残酷な小説だ。途中で母シーラの視点が挟まってから第二部、第三部と続いていく展開は圧巻なのだが、詳細は書かない。読んでもらいたい。
最後に私が好きな段落を引用してこの稿を終わる。ああ、この小説、本当に好きだ。
――わたしたちは約束を交わした。オックスフォードにいたとき。鏡の前で手をつなぎ、約束が有効だと鏡像によって確認した。わたしたちは何が起ころうと乗り越えていく。セプテンバーはとなりに立っていたが、それでもわたしの手は何も握っていないようだった。わたしは何度も手に力をこめた。ねえジュライ、約束する? とセプテンバーは言った。わたしはなんでも約束するつもりだった。ねえジュライ、わたしの言うことを聞いて、とセプテンバーは言った。わたしたちは互いへの約束を一度も破ったことがなかった。
(杉江松恋)
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。