北海道日本ハムファイターズが北海道に移転する前、東京ドームを本拠地にしていたことは当時を知らないファンでも耳にしたことはあるだろう。東京ドーム、その前の後楽園球場は読売ジャイアンツの本拠地であり、最近ではロッカールームに格差があったなど、OB選手たちがYouTubeの動画などで待遇格差を話題にすることも多い。
筆者も当然東京ドームを本拠地にしていたことは知っていたが、ふと考えてみると「そもそもなぜ巨人が使っている球場を本拠地にしたのか」という疑問が浮かんだ。今回はなぜファイターズが東京ドーム(後楽園球場)を本拠地にしていたのかを調べてみた。
1年で身売りした創設期
そのためにも、まずはファイターズ球団の歴史から調べていきたい。
ファイターズは1945年11月、東京を本拠地とするセネタースという球団として誕生した。これは戦中に消滅したプロ野球球団、東京セネタースを復活させようと、初代監督を務めた横沢三郎氏ら関係者が創設したものだった。当時はまだフランチャイズ球場制度が導入される前だったため、本拠地球場は存在しなかった。1946年の創設1年目は特定の親会社を持たず、教科書に登場する西園寺公望の孫である西園寺公一氏がオーナーとなっていた。しかし、日本国憲法の施行で、華族制度が無くなったため、資金繰りが困難に。セネタースは慢性的な資金不足に悩まされ、わずか1年で身売りすることとなった。セネタースは1947年から東急電鉄が親会社となり、東急フライヤーズに改称(大映が資本参加した年は急映フライヤーズだった)した。
後楽園球場大混雑の時代…東急沿線に自前球場建設へ!
東急フライヤーズとして迎えた1952年。フランチャイズ制度が正式に導入された。しかしまだプロ野球黎明期だったこの頃は地方はもちろん、首都圏にもプロ野球を開催できる球場が少なく、後の東京ドームとなる後楽園球場を巨人、国鉄スワローズ(ヤクルトスワローズ)、毎日オリオンズ、大映スターズ(両方とも千葉ロッテマリーンズの前身)、そしてフライヤーズと5球団が本拠地として使用するという状況だった。日によってはダブルヘッダーどころかトリプルヘッダーも行われるような状況で、過密日程が当たり前だった。
そんな状況の中、親会社の東急は、自社沿線の利用客増加も兼ねて、プロ野球公式戦を開催できる球場の建設を決定。それが現在の駒沢公園の場所で、ここに1953年9月に駒澤野球場を完成させた。自前球場を作ったことにより、フライヤーズは後楽園での興行権を無くしてしまう。なんと北海道日本ハムファイターズがエスコンフィールド北海道を開業させた70年も前に、ファイターズは自前球場を所有していたのだった。
1953年の一部試合を駒澤野球場で行い、1954年から本格的に本拠地を移転。東映に運営が委託されたこともあり、球団名が東映フライヤーズに変更になったシーズンだった。ここからフライヤーズは1961年まで駒澤野球場を本拠地に試合を行うことになる。この駒澤野球場はたった9年でその歴史に幕を降ろすことになってしまう。
あの世界的行事に翻弄され、長い長い借りぐらしの日々へ
1961年、駒澤野球場の土地を1964年に行われる東京オリンピックの会場にするという理由で、球団は東京都から球場が建っている土地の返還を命じられてしまった。1962年の秋から撤去工事が始まり、跡地にはレスリングやサッカーの競技施設が建設された。かつての駒澤野球場があった場所は、現在の駒沢公園の第二球技場がある場所。現在の硬式野球場があるのはまた別の場所となっている。
ここからファイターズ球団の長い長い借りぐらしの日々が始まる。
このタイミングで後楽園球場に移ったのかと思ったが、ファイターズが移転したのはなんと明治神宮野球場。東京都の仲介もあり、当時学生野球しか行われていなかった明治神宮野球場がフライヤーズの借家新本拠地となった。そしてこの年、フライヤーズは球団創設初の優勝と日本一を達成する。初めて優勝したときの球場が明治神宮野球場だったとは筆者も驚いた。しかしこの年は神宮球場32試合、後楽園球場24試合、その他9試合と神宮球場を本拠地とは言っているものの、学生の試合との兼ね合いもあり現在では考えられないような神宮球場と後楽園球場の借りぐらし状態だった。翌1963年も同じように神宮と後楽園球場を中心に開催。1964年からスワローズが神宮球場を本拠地にすることが決定し、その影響でフライヤーズは神宮球場を去ることに。どうしてこのような扱いなのかは不明だが、ここでフライヤーズは日程に余裕が出た後楽園球場に移転(正式移転は1965年から。この年は後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)。フライヤーズはその後、日本ハムファイターズ(1974年から)になってからの1980年まで神宮球場を準本拠地として使用していた。
実質1964年から2003年のシーズンオフまでの39年間、ファイターズは後楽園球場、東京ドームを肩身の狭い思いをしながら間借りをし、2004年から2022年までの19年間は高額な賃料を払い続けた。2023年、エスコンフィールド北海道が開業し、球団が1軍本拠地球場を自前で持つのはなんと1961年以来62年振りのこと、1974年に日本ハムが球団を所有し、球団名を「ファイターズ」に改めてからは初のことだった。
フライヤーズが本拠地移転を繰り返していた1960年代のプロ野球と言えば、長嶋茂雄氏、王貞治氏のON全盛期。セリーグは国民的人気を誇っていたが、パリーグは日の当たらない存在だった。そんな状況下で様々な要素に振り回されながら球団を守ってくれた当時のスタッフ、グラウンドで戦っていた選手、そして当時のファンには心からの感謝を伝えたいと思う。そして次の世代にこのバトンを渡せるように、プロ野球、そしてファイターズを愛していきたいと思う。
(Written by 大井川鉄朗)