興味深い”視点の小説”〜渡辺優『私雨邸の殺人に関する各人の視点』
ミステリーには視点の小説という側面がある。
何が誰にわかっていて、何がわかっていないか、という情報の処理が重要な意味を持つジャンルだから当然である。ワトスンがホームズの活躍を叙述するのも、アメリカで発生して流行した一人称の私立探偵小説も、元は同じところから生れたものだ。作者が読者に謎を解いてみろと挑戦するならば、視点の問題はさらに重要性を増す。読者に対して情報がどのように呈示されるかは、フェアかアンフェアかの分かれ目となるだろう。
したがって叙述の視点問題についてミステリー読者は敏感になりがちである。新しい試みがあると、すぐに反応する。渡辺優『私雨邸の殺人に関する各人の視点』(双葉社)は、そうしたファンの好奇心をうまい具合にくすぐってくれる作品だ。だって題名に視点って入っているし。
説明過多の題名に興味を惹かれ、どういうことなのかと手に取って読み始めた。いわゆるクローズドサークルもの、つまりなんらかの原因で孤立した状況に取り残された人々の間で起こる事件を描いた物語である。雨目石鋼機株式会社の名誉会長である雨目石昭吉が家族や友人を招待する。私雨邸というのは山奥にある彼の屋敷で、当日はそこに招待客以外の人々もやってくる。取材記者や、山中で事故に遭って帰れなくなった人だ。彼らが集まって一夜を過ごした後、昭吉の死体が発見される。事件現場は屋敷の三階にある私室である。部屋は内側から施錠されていた。つまり密室状態で、マスターキーを密かに持ち出したのでなければ犯人が部屋を出入りできた理由は説明がつかなかった。不可能犯罪ということになる。
今さらりと犠牲者の名前を書いた。これは冒頭で明かされているのである。小説が始まってすぐ、昭吉が死体となって発見されること、第一発見者が孫娘の雨目石サクラであることが明記される。序盤の展開はだから、その死体発見の瞬間に向けて進む時の流れを追っていくことになる。この冒頭部分には【X】という記号が付されている。それが何を意味しているのか最初は不明なのだが、読み進めていくうちにわかってくる。続いて出てくる叙述は【A―二ノ宮】と記される。二ノ宮はT大学ミステリ同好会の会員だ。彼はSNS上で昭吉と知り合って相当の年齢差があるにもかかわらず意気投合し、私雨邸に招待されたのである。続く叙述には【B―牧】とつけられている。牧は地元出版社の雑誌編集者で、昭吉を取材するためにやってきて帰れなくなってしまい、事件の刻を迎えることになるのである。つまり【】つきで記されているのは、それが何者かの視点であるという識別子だ。Xだから、不明ということになる。この叙述は何なのだろうか。
クローズドサークル内で起きる事件を扱ったミステリーの古典的名作といえば、第一にアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』(クリスティー文庫)を挙げるべきだろう。謎の人物に招待されて賓客がインディアン島にやってくることから始まる物語で、叙述の特徴として賓客や使用人それぞれが視点人物を務めることが挙げられる。登場人物のほぼ全員が語り手なのだ。このことによっていやが上にもスリルが高まる。誰が事件の犠牲者になるかは、死体が転がる瞬間までわからないからだ。その効果を狙った語りなのだが、実はここにも視点と叙述の仕掛けが施されている。『乱視読者の帰還』(みすず書房)所載の文章で若島正がそれについては詳しく述べているので、機会があればぜひご一読いただきたい。若島はこの評論で2002年に本格ミステリ大賞の評論部門を受賞した。登場人物の語りに謎解きのための手がかりをさりげなく忍ばせておく技巧はクリスティーによって磨かれ、以降のミステリーにおける欠かせない要素となった。そのことがよくわかる一文である。
以上のようなことを念頭に置いて読むと、『私雨邸の殺人に関する各人の視点』は実に興味深い作品なのだ。なるほど、そういう趣向なのか、と種明かしをされると感心させられる。先に紹介した二ノ宮という学生は、ミステリーマニアの代表のような役割だ。謎解きに耽溺するあまり、いつか自分もクローズドサークル内の事件に遭遇してみたいと願うようになっており、昭吉が殺されると嬉々として探偵役に立候補するのである。ちょっとどうかと思う倫理観の持ち主だが、彼がいることによってミステリー内に探偵を務める登場人物が置かれるのはなぜか、という点に関心が高まるように物語は設計されている。小説の後半では探偵の役割や資質についてたびたび言及され、謎解き小説の根幹が改めて問い直されることになるのだ。
真相がわかった後でもう一度物語全体について振り返ってみることをお勧めする。各登場人物の心情に分け入ってみると、それまでは見えなかったものが浮かび上がってくるはずだ。探偵は謎を解くが、何かを見えなくさせてしまうこともある。そういうことを書いた小説だと思う。ミステリーファンを自認する読者はぜひ手に取っていただきたい。
(杉江松恋)
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