“推し”を描写する極上の言葉〜小川洋子『からだの美』

 人間や動物の身体の部分に見られる「美」を追求したエッセイである。小川氏の小説にはいつも硬質で清潔感のあるフェティシズムの気配が漂うが、このエッセイも同様である。読んでいると、自然に著者の小説世界と重なってきて、小説を再読するための新しい視点を得られたような興奮がある。ファンの方ならば絶対に読むべきということに間違いはない。

 だが、このエッセイを小川氏の小説の読者だけに独占させておくのは、あまりに惜しいと私は思うのだ。「推し」がいて、その人(動物でも可)のことばかり考えてしまうという方。気がつくとその画像や動画ばかりを見ているという方。そんな皆さんにも、ぜひ読んでいただきたいと思っている。

 近年、推し活をする人はとても増えているが、自分がなぜその人にそんなにも惹かれるのか、ということを人に説明するのはなかなか難しいのではないだろうか。「かっこいい」「きれい」「素敵」などの一般的な表現でも、「萌える」「エモい」「尊い」などの流行り言葉でも表現しきれない何かに、私たちは強く惹かれるのだ。湧き上がる感情を誰かに伝えようとすれば、言葉を重ねるほどに自分の表現力の陳腐さにがっかりする。細部にこだわれば次第に言葉が湿り気を帯びてきてしまい、相手が引いていくのがわかる。

 外野手の肩、ミュージカル俳優の声、棋士の中指、フィギュアスケーターの首、ゴリラの背中、ハダカデバネズミの皮膚、ハードル選手の足の裏……。小川氏の描く対象の多くは、かなりマニアックと言って良いだろう。著者は、その一つ一つを丹念に観察し、誠実に分析し、思いもよらない方向から描写していく。私自身は今まで一度も「美」を感じたことがないどころか、関心すらなかったものも多数含まれるのに、読んでいるとその対象にずっと愛情を持っていたかのように錯覚し、気がつくと胸の奥に疼くような何か生まれている。そしてその思いが、世界や歴史への関心、自然への畏敬のような、壮大なものにつながっていく予感がするのだ。 

「秘密の小部屋に眠る鼓膜を震わせ、胸を揺さぶってくる」ミュージカル俳優・福井晶一氏の声。「盤の中心に渦巻く宇宙の摂理」と共鳴する羽生善治九段の指。「永遠を信じられるほどの強さと優しさ」を放つゴリラの背中を覆う白い毛。「視界に映らないはずの空気の壁を感じ取り、それらを一枚一枚」突き破るハードル選手・劉翔氏の足の裏。

 自分の「推し」の姿から滲み出てくるものを、こんなふうに感じとることができたらどんなに幸福だろう。生きる喜びは、何倍にも広がるのではないか。愛しいものに寄せる細やかな思いを広い世界へと羽ばたかせ、未知の美しさと出会いたい。そのような感情の湧き上がってくる極上のエッセイだった。

(高頭佐和子)

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