2023年のベスト犯罪小説が出た!〜S・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』

2023年のベスト犯罪小説が出た!〜S・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』

 何よりも恐ろしく、後ろめたいのは自分の心である。

 S・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』(ハーパーBOOKS)を読む人は、物語に深い淵が広がっていることに気づくだろう。それは取り返しのつかない過ちに戸惑い、贖罪の途を探す主人公たちが、自身の心の中に見出した闇である。同時にまた、彼らの姿を見た読者が、我が身を振り返らざるをえなくなって見出す鏡像でもある。誰の心の中にも、深く分け入っていけば癒しがたい傷がある。夢中になってページをめくるうちにふと過去の思い出が胸をよぎり、思わず手を止めてそのことに思いを馳せたりもした。読む人の心に波を起こさせる小説である。その、さざ波の立てる音こそが物語の本質であるのかもしれない。

 主人公は二人の男性である。一人は黒人のアイザック(アイク)・ランドルフだ。かつて人を殺して服役したことがある男だが、きちんと更生し、今は庭園管理会社を経営している。もう一人はバディ・リー・ジェンキンス、白人である。彼も同じように前科者だが、アイクのようにうまく社会復帰できなかった。アルコールの問題を抱えており、今はトレーラーハウス暮らし。妻は出て行った。まったく対照的な二人だが、彼らには共通点がある。アイクの息子アイザイアと、バディ・リーの息子デレクは夫婦だったのである。そのことを二人の父親は受け入れられず、同性婚という事実自体を拒絶した。再び息子たちと話し合う機会を得る前に、二人の父親は衝撃的な報せを受ける。何者かによって、アイザイアとデレクは射殺されてしまったのである。二度と我が子とは話すことができない。息子に詫びる機会は永遠に失われた。

 ある日、アイクの元にバディ・リーがやってくる。警察の捜査は遅々として進んでいない。息子を殺した連中を自分たちの手で捜し出そうと声をかけてきたのだ。はじめ、アイクはこの申し出を拒絶する。だが、息子の墓が何者かによって棄損されるという事件が起きた。死してなお我が子を傷つけようとする者がいることにアイクは怒り、バディ・リーと行動することを決める。自らのけじめは自らでつけるのだ。

 過去に取り返しのつかない間違いを犯してしまった男が、贖罪のために身を捨てることを決意する物語である。同性婚、しかも黒人と白人のカップルということで事件には初めからヘイトクライムの臭いがしている。殺されたアイザイアはジャーナリストだったのである。新しい時代には、かつては考えられなかった人生の選択肢が存在する。そのことを否定する者たちがいる。二人の若者を殺害したのはそうした不寛容な者ではないのか、ということから話は始まっていく。アイクとバディ・リー自身が実はそっち側に近い倫理観の持ち主である、という出発点の設定がまず上手い。話が単純な二元論に陥ることをそうやって回避しているのだ。

 相棒小説でもある。まったく違う者同士がやむをえず手を組み、行動を通じて相互理解を深めていくというのがこうした物語の定型だが、同性婚をした息子を拒絶した、という以外に共通点がない二人に手を組ませるのがいい。このコンビで魅力的なのはバディ・リーだ。好きな音楽はカントリー、だが今のラジオは本物をかけなくなって「赤ん坊のうんちのようにソフトな男性モデルが、スチールギターに合わせて腰をくねらせる曲を歌うだけだ」と考えている。二人がコンビを組むとき、まずこのカントリーが揉め事の種になる。アイクのトラックに乗り込むと音楽がかかる。カントリーは好きじゃないんだろうな、とバディ・リーが何の気なしに聴くと、おれが黒人だからそういうことを言うのか、とアイクに噛みつかれた。悪く思わないでくれ、あんたの同類でカントリー好きにあまりお目にかかったことがないから、と弁解する言葉に、アイクはさらに怒る。「今度、”あんたの同類”と言ったら、トラックから放り出す」「あんたやほかの白人から”あんたの同類”と言われたら、おれはクソ動物か何かで、檻に追い込まれているように感じる。気に入らない。減点一だ」と。

 取りつくしまもないというのはこのことで、険悪な状態で二人の関係は始まる。これが変化していくのである。それはもちろん、二人の世界に対する考え方が変わっていく過程と同期する。自分たちが思っていたよりも世界は少し広いみたいだといわかってくるのだ。死んだ息子たちが教えてくれるのである。

 これだけでもう十分なくらいだが、コスビーはさらに小説を掘り下げていく。今は紳士として暮らしているアイクだが、かつてはライオットと異名をとった凶暴な犯罪者だった。その過去を封印して現在があるのだ。彼がバディ・リーの誘いを断ろうとしたのは、後ろ暗い世界と手を切ったからという事情もある。しかし調査を続けるうちに、アイクは自身の奥底にある炎、暴力の衝動を抑えきれなくなっていく。この物語構造は前作『黒き荒野の果て』とも共通する。これは暴力小説なのである。自らの力で身を守るしかないというぎりぎりの事態を準備し、その中で主人公がどう振る舞うかを読者に見せる。他人の死と自身の死とどちらかしか選択肢がない状況で主人公が下す判断から、暴力を描くことでしか表現できないものの存在を浮き上がらせていくのである。アイクたちの敵は卑劣な手段を使う。弱い者が犠牲になりそうになるのだ。定番の展開だが、主人公たちをとことん追い詰めていって容赦がない。だからこそ爆発力があり、結末には凄まじいカタルシスが訪れる。暴力を描くなら中途半端では駄目なのだ。このぐらいやらなければ。前作ではまだ甘かったぞ俺は、とコスビーが呟いているのがわかる。そうだ。暴力の小説はこうでなければ。

 この小説を読んだのは実は昨年の暮れである。帯の推薦文を書くため、先行して読ませてもらった。読んだ瞬間にわかったが、犯罪小説というジャンルに絞ればこれが2023年のベストなのではないかと思う。困った。だって読んだのは2022年なのに、2023年のベストがわかってしまってどうするのだ。だが仕方ない。これはミステリ史上の里程標となる作品だからである。おそらくこの先、何度も読み返すことになるだろう。それほどの小説である。

(杉江松恋)

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