何度読んでも面白いジョー・ヒルの短篇集『ブラック・フォン』
哀しいことしかない人生を送っている物が口にするユーモア。
それが詰まっているのがジョー・ヒルの短篇集『ブラック・フォン』だと思う。
ご存じの方も多いかと思うが、ヒルはモダンホラーの帝王スティーヴン・キングの息子だ。ただし彼が作家として成功を収めたことにキングはほとんど関与していない。ヒルは初め純文学畑のマイナー雑誌に短篇を送ることから作家業を開始し、こつこつと努力を積み重ねて現在の地位を築いたのだ。名前が知られるようになってから、キングと短篇を合作したこともある。『怪奇疾走』(ハーパーBOOKS)に収録されている「スロットル」がそれで、『激突!』の現代版と言うべきノンストップ・スリラーだ。
『ブラック・フォン』はヒルが売れない純文学作家だったころの短篇も含む初期作品集だ。才気のほとばしりが随所に見られるし、遊びも随所にあって楽しい。たとえば巻頭の「謝辞」には「シェヘラザードのタイプライター」という幻想短篇が隠されている。誰にも読まれない小説をこつこつ書き続けた男が死んだあと、地下室に仕舞われたタイプライターが彼の原稿を自動で打ち始める、というお話だ。作家が小説を書くことについての小説であり、これが「謝辞」に収められたというのは、世界への感謝をヒルなりに示したものだろう。
で、そのあとの「年間ホラー傑作選」を読んで心を鷲掴みにされた。題名通り、年間ホラー傑作選の編纂者を務めるエディ・キャロルという男が主人公なのだが、彼は自分のところに山と送られてくる屑小説に飽き飽きして、すでに憎悪するようになっている。どんなジャンルもにも九割は屑が含まれているというが、そればかり読んでいれば嫌にもなるというものだ。ところがそこに「ボタンボーイ」という題名の短篇が送られてくる。少女誘拐から始まる凄惨なホラーで目を背けたくなるような残酷描写がてんこ盛りだが、どぶ泥の中で花を咲かせる蓮のような輝きがある。すっかり気に入ったキャロルはアンソロジーに「ボタンボーイ」を収録しようと決意するが、容易には進まなかった。作品はとある大学発行の文芸誌に掲載されたのだが、あまりの悪趣味ぶりに読者が激怒し、編集長も解任される羽目になったというのである。作者のピーター・キルルーを捜すキャロルの旅が始まる。
ジャンルに対する愛着と同族嫌悪のないまぜになった感情が下敷きにあり、人に嫌悪されがちなホラーをなぜ書くのか、という問いをキルルーを求めるキャロルの姿に重ね合わせて書いた、痺れるような作家小説である。キルルー捜しの旅はホラー小説とは何かという答えを求めることになるので、ある程度予想がつく結末を迎える。だが予想外だったのはその疾走感で最後の数ページの迫力たるや凄まじいものがある。おお、これはまさしく年間ベスト級、いやそれを上回る水準の短篇ではないか。
こういう作品がずっと続く。続く「二十世紀の幽霊」は、映画館〈ローズバッド〉に棲みついた幽霊の物語である。十九歳のイモジェーン・ギルクリストは「オズの魔法使」を観ている最中に脳内出血を起こして死んだ。それ以来ずっと映画館の中にいて、時折観客に話しかけてくるのである。誰でもいいというわけではなくて、心底映画が好きで、この表現形式に理解があるという観客のみである。十五歳のとき、ヒッチコックの「鳥」を観ている最中にイモジェーンと出会ったアレックス・シェルドンは〈ローズバッド〉の経営者になる。経営不振の映画館はいずれ閉めざるを得なくなるが、そうなったときイモジェーンがどうなってしまうのか、ということがアレックスは心配でならない。これまた映画というジャンルに愛を注ぐ者たちの物語であり、長い時間を使って語られる恋愛小説でもある。
そのあとの「ポップ・アート」が追憶と悔恨を描いた青春小説で、綺麗な平山夢明とでもいうべき内容である。「十二歳のとき、おれの一番の親友は空気で膨らませる人形だった」という書き出しからしてずるい。これは比喩とか、愛情の対象がおもちゃ箱の中にしかなかったということではなく、語り手である〈おれ〉の級友であるアーサー・ロスは、本当に空気人形として生まれてきたのである。アーサーはちょっとでも尖ったものが刺されば破裂してしまう体の持ち主だから、先行きには破滅の予感しかない。ふざけた設定なのに、読んでいて胸がしめつけられる気持ちになってしまうのである。題名の意味がわかった瞬間、目の前に抜けるように青い空が広がっていく。青い空が出てくる小説に私は弱いのだ。
次の「蝗の歌をきくがよい」は怪獣映画自主製作マニアによるカフカ『変身』とでも言うべきか。いじめを受けていた少年フランシス・ケイは、ある朝自分が巨大な昆虫になっているのを発見する。虫になった体を制御できずにごろごろと転がる場面が序盤は延々と続くのだが、そのへんの現実に寄り添った書きぶりが純文学志向だった作者の経歴を感じさせる。フランシスの怪物化には東宝怪獣映画的な理由付けがされていて、不条理だけで終わらせないところもおもしろい。これも最後の疾走感がいいんだ。
このへんまできてようやく気がついた。この小説、全部読んだことがある。そうなのである。本書は二〇〇八年に小学館文庫から刊行されていた『20世紀の幽霊たち』を改題・改稿した新装版であり、十年以上前に私は大興奮しながら読んでいたのだ。最初に訳者あとがきを見ればそれと気づいたのだろうが、ヒルの短篇集というだけで待ちきれずに頭から読んでしまったのでわからなかった。しかし、おもしろいものは何度読んでもいい。これは絶対に読むべき短篇集だから、何度だって手に取っていいのだ。
今回の新装版は、収録作の「ブラック・フォン」がイーサン・ホーク主演で映画化されたことを受けてのものだろうか。小学館文庫版では「黒電話」となっていた作品だ。乙一「SEVEN ROOMS」(『ZOO』収録)を彷彿とさせる密室劇でお見事なホラーである。すべてが素晴らしい作品なのでぜひ読んでいただきたい。特に「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」は、ショー・ビジネスの世界に入ったが芽が出ず故郷に帰った男が、ハイスクール時代に大好きだった女性と再会するという話で、苦い人生を描いた小説として素晴らしい。二人が再会するのがジョージ・ロメロ監督のゾンビ映画にエキストラ参加している最中だというのがまたいい。曲りなりにもショー・ビジネスに足を突っ込んだことがある男には、エキストラどもの演技に対する姿勢が気になって仕方ない。そこでこんな文章が出てくる。
――まったく、あいつらのだれひとり、スタニスラフスキー方式のメソッドアクティングを知らないのか? 本来なら、いま自分たちはそれぞれ離れてひとりきりですわり、苦しげなうめき声を洩らしつつ臓物を指でもてあそんでいるべきだ。(白石朗訳)
これこれ。このセンスがジョー・ヒルなんだよね。
(杉江松恋)
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