『真・女神転生V』レビュー:我々の判断が試される……! 2021年の今プレイするべきRPG
「メガテニスト」と呼ばれるコアなファンを持つRPG「真・女神転生」シリーズ。その最新作である『真・女神転生V』(Nintendo Switch)がとうとう発売された。「真」が付かないファミコン版『女神転生』からの「メガテニスト」である筆者も、もちろん自腹購入したので、レビューをお届けしたい。
「真・女神転生」シリーズを特徴づける3つの魅力
「真・女神転生」は、他のRPGにない特徴を持った作品でコアなファンを抱えていることで知られる。では、どんな特徴を持っているのか。それは、「敵を仲間(=仲魔)にできる」「宗教を背景とした奥深い世界観」「プレスターンバトルの緊迫感」の3点だろう。
この内、「敵を仲間(=仲魔)にできる」「宗教を背景とした奥深い世界観」については、シリーズの原点であるファミコン版『女神転生』から既に有していた。『女神転生』の発売は1987年。『ポケットモンスター』や『ドラゴンクエスト』シリーズをはじめ、現在では敵モンスターを仲間にできるRPGも存在しているが、『女神転生』はその元祖と言える。そして、元祖にして『女神転生』ならではの特徴が、「会話」と「合体」だ。
「女神転生」シリーズでは、敵を「仲魔」にするため、戦闘中に会話を行う。会話が上手くいけば交渉成立、晴れて「仲魔」となるわけだ。しかし、会話に失敗した場合、下手すると一方的に攻撃されてしまう。また、ただ話をするだけでなく、交渉のためには「女神転生」シリーズにおけるお金「マッカ」や、アイテムを差し出さなければならないこともある。それどころか、HPやMPを吸収されることもあってリスクが高い。
そんなリスキーな会話の結果、ようやくできた「仲魔」を「合体」の素材にしてしまうのも『女神転生』の特徴。「合体」は、文字通り2体以上の「仲魔」を合体することで、別の悪魔を生み出すこと。上手く使うことで、現在の「仲魔」よりも強い「仲魔」を手に入れることができるわけだ。
この「会話」と「合体」の時点で既に、『女神転生』の空気感を得られるのではないだろうか。「ピカチュウはオレの大切な仲間だ!」だとか、「モンスターにだって心はある! ホイミンだって人間になれる!」みたいな空気とは真逆。自分のパーティーを強化するために、口八丁で敵を口説き落とし、容赦なく合体してより強力な仲間を作り出していく。そんな背徳的な空気こそ、「女神転生」シリーズのそれだ。
この空気を象徴するセリフこそ、「悪魔を殺して平気なの?」だろう。敵=悪魔との会話の際、戦闘によって敵を殺戮しまくっている主人公=プレイヤーに対して『真・女神転生』で投げかけられるセリフがこれだ。
なお、「宗教を背景とした奥深い世界観」については初代『女神転生』ではやや薄く、確固たる世界観を築き上げたのは、ファミコン版『デジタル・デビル物語 女神転生II』からだろう。これは、西谷史氏の小説『デジタル・デビル・ストーリー 女神転生』原作の初代『女神転生』に対し、『女神転生II』からオリジナルストーリーとなったからだと思う。初代『女神転生』の時点でも、ルシファーやロキ、ケルベロスにイザナギ・イザナミなど、シリーズの骨子となる宗教要素は登場している。しかし、まだテーマといえるほどではなかった。これが『女神転生II』になると、「宗教」がテーマとして関わってくる。
(画像はファミコン版『デジタル・デビル物語 女神転生II』パッケージ)
『女神転生II』の世界では、悪魔の勢力がそれぞれ対立をしている。悪魔と書いたが、「女神転生」シリーズにおける悪魔は、神に等しい存在だ。要するに、キリスト教の神こそが神であり、それ以外の宗教の神は、異端の神……すなわち、悪魔ということ。『女神転生』はこの設定を、完全オリジナルで生み出したわけではなく、ある程度現実の神話・歴史に即した形で取り込んでいる。
たとえば、シリアの神「バアル」は、キリスト教において「ベルゼブブ」「バエル」という2つの悪魔として語られた。『女神転生II』ではこの逸話を取り込み、「ベルゼブブ」と「バエル」が合体、「バアル」としての姿を取り戻すというイベントがある。こうした宗教的イベントに絡んでくるのが、「価値観」に対する選択肢だ。
キリスト教の一部から見れば、別の宗教は異端の宗教(邪教)になってしまうかもしれないが、その別の宗教から見れば、そう断じるキリスト教こそ異端だろう。宗教が異なれば、大小差はあれど、様々な価値観が異なっているといっていいだろう。正義だって変わるのだ。
『女神転生』はこの「価値観の多様性」を「選択肢」という形でゲームに取り込んでいる。プレイヤーの選んだ選択、行った行動は、そんな価値観なのかをゲーム内で判定し、プレイヤーがどの陣営に着くのかが変化していく。ファミコン版『女神転生II』での価値観は「慈悲の有無」だった。キリスト教によって「悪魔」の座に堕とされた神々への慈悲があると、プレイヤーを待っているのは唯一神とのバトル。
唯一神を倒して、人間の世界を掴むという物語になる。しかし慈悲がなければ、唯一神に仇なすサタンを倒し、人間は唯一神によって守られながら暮らしていく……という物語になるのだ。
この「価値観の選択」という要素は、『真』がつく初めての『女神転生』、スーパーファミコン版『真・女神転生』によってさらに深まった。『真・女神転生』では、「ロウ」「ニュートラル」「カオス」という価値観がゲーム的なパラメーターとして用意され、ゲーム中のプレイヤーの行動によってこのパラメーターが変化する仕様となったのだ。
ちなみに、「唯一神を倒して、人間の世界を掴む」というファミコン版『女神転生II』のエンディングは、それだけ見ると、我々日本人にとってはわりと王道なエンディングに思える。ライトノベルやマンガ、映画などでも、「神の名のもとに人を支配しようとする存在を倒し、自由を勝ち取る」という展開のものがあるからだ。
しかし、「女神転生」シリーズはそんな王道展開を許しちゃくれない。シリーズ中、唯一神が倒されることがあったとしても、時がたてばやがて再び人類が唯一神を必要としてしまう。なぜなら、人類は弱いから。確かにシリーズの主人公たちは皆強い。数名のチームで世界の情勢をひっくり返せるほどの能力者たちだ。
それでも人類の大半は、そこまでの力を持たない。誰かに頼らないと、何かにすがらないと生きていくことができない存在だ。だから、やがて神に頼りたくなる。なんとも背徳的でシビアな世界観! この時点でも、かなり独自の魅力を持った作品であることが分かってもらえると思う。
3つめに挙げた「プレスターンバトルの緊迫感」は、Play Station2で発売された『真・女神転生III』で初搭載されたバトルシステム。バトルの際、「行動回数」の概念があり、プレイヤー側も敵も、「行動回数」分のアクションが行える。この「行動回数」は、相手の弱点属性を突くことで増やすことができるが、逆に相手が得意とする属性の攻撃を行ってしまうと、一気に減少してしまう。
このため、弱点を上手く突くことができれば、一方的に連続攻撃をすることが可能なのだが、この条件は敵も同じ。なので、敵ターンにこちらの弱点を突かれてしまい、自分のターンに戻ることなくゲームオーバー……なんてこともザラにある。連続攻撃の爽快感と、死の緊迫感を同時に楽しめる、優れた戦闘システムだ。
(画像はPlayStation4版『真・女神転生III NOCTURNE HD REMASTER』)
カードゲームのような戦略性と戦術性は健在!『真・女神転生V』のプレスターンバトル
最新作『真・女神転生V』でも、「敵を仲間(=仲魔)にできる」「宗教を背景とした奥深い世界観」「プレスターンバトルの緊迫感」の3要素は健在。まず「プレスターンバトル」は、3タイプの敵によって異なる戦術性を楽しませてくれる。
先に書いた通り、「プレスターンバトル」とは、攻撃する属性によって行動回数が変化するバトルシステムだ。ただ、この書き方だと、単に属性攻撃を使い分けるシステムのように思えるのではないだろうか。しかし、そうではない。「属性攻撃を使い分ける」という要素も確かにシステムの一部分なのだが、その本質は、トレーディングカードゲーム(TCG)のように、行動する「一手」をシビアに判断する戦術性と、スキルを収集する戦略性にある。
「プレスターンバトル」が採用されているシリーズ作品では、補助魔法が非常に強い。防御力をアップする「ラクカジャ」を使わないと即死だが、補助魔法を使うと2ターン持ちこたえられる……なんてシーンはザラ。そして、もし2ターン持ちこたえられるのであれば、敵の弱点を突くことによって行動回数を増やし、回復することも不可能じゃない。たかが補助魔法、されど補助魔法。「使うか、使わないか」という一手が、戦況を大きく変化させていく。
この詰将棋のような戦術性こそ、「プレスターンバトル」の本質だろう。シリーズではとりわけ『真・女神転生III NOCTURNE マニアクス』における魔人戦やライド(ダンテ)戦などのバトル、あるいは『真・女神転生IV FINAL』のYHVH戦において、この戦術性が光っていたように思う。
もちろん、ザコ戦を含むすべてのバトルにおいて一手一手熟考を促すようなシステムだと、さすがに疲れてしまう。『真・女神転生V』ではバトルにはザコ戦、マガツカ戦、ボス戦の3種類があり、熟考が必要なバトルはボス戦のみだ。ザコ戦は、敵の弱点を的確に突いていれば安定的に勝てるようになっている。
「マガツカ」というのは、本作の舞台である「東京ダアト」に点在する悪魔の住処(すみか)で、プレイヤーの行く手を遮る障害物的な存在。「マガツカ」の中心部には強力な悪魔が存在し、この悪魔を倒すと「マガツカ」が崩壊し、行動範囲が拡大するという仕組みだ。
強力な悪魔と書いた通り、ザコよりは格段に強い。しかし、「行動を一手間違えると終わり」というボスのような強さではない。このため、ザコ戦とは異なる緊迫感を味わいつつ、ボスに備えて戦術の練習をするのにちょうどいい。
「戦術」と「戦略」と書いたが、ここでの「戦術」とは、バトル時にどんな行動を選ぶか? という「行動選択」を意味している。一方で、そもそもどんな「仲魔」を編成するのか? という点も、バトルには重要だ。この記事ではこの「仲魔の編成」について「戦略」と表現する。
本作における「戦略」とは、会話によってどんな悪魔を「仲魔」とし、「合体」でどう強化していくかということ。実際にゲームをプレイすると、ボスの弱点属性や行動パターンなどを踏まえた上でどんなスキルが必要か考え、そのスキルをどんな悪魔が持っているか調べて、その悪魔を生み出すべく、「会話」と「合体」を繰り返す……というのが「戦略」の具体的な中身になる。
先にTCGを引き合いに出したが、実際にTCGをプレイした人であれば、「必要なスキルを考え、そのスキルを持つ悪魔を編成する」という戦略性と、「どのスキルをどんなタイミングで使うのが効果的か?」という戦術性に、TCGとの親和性を感じられるのではないだろうか。そして、TCGのデッキ編成やバトルに中毒性があるように、本作の戦略性と戦術性もまた、中毒性が高い。
筆者は本作を難易度ノーマルでプレイしているが、ボスの強さが「一手ミスすると確実に死ぬ」レベルで絶妙に調整されているため、自然と、「このスキルとあのスキルがどうしても欲しい!」という気持ちを抱かされる。そして、「合体」によって意図した仲魔を作り出すため、「会話」を繰り返す。
ただ、「会話」によって新たな仲魔が手に入ると、想定していた悪魔とは異なるものの、強力なスキルを持った悪魔が生み出せることに気づかされる……なんて事態が発生する。こうなるともう止まらない。ボスやストーリーそっちのけで、「会話」と「合体」をただただ繰り返すことになってしまう。
仲魔の中には特別な存在もいる。チュートリアルで仲魔になってくれるピクシーや、イベントで仲魔になってくれるアプサラスといった悪魔は、ストーリーに絡んでくることもあって、思い入れが深い。でもボスに勝つためには「合体」の材料にしてしまう。なぜなら、より強力な仲魔を作り出したいから!
そんな風に夢中になってプレイしていると、気づいたら数時間経過。ゲームの中でも現実世界でも感じる背徳的な気持ち。そう、そうだよ。これが「女神転生」だ!
探索要素は大きく進化! 世界をめぐる楽しさがアップ
『真・女神転生V』で大きく進化した点が、探索要素だろう。基本的にシリーズの探索要素は、初代『女神転生』から、3Dダンジョン探索としての楽しさを踏襲してきたように思う。もちろん、作品ごとに新要素は追加されてきた。『女神転生II』で2Dマップが登場し世界に広がりが生まれ、『真・女神転生III』では3D化。『真・女神転生IV』ではマップが不定形になってより自然になった上で、敵との遭遇がシンボルエンカウントに。
こうした新要素はあるものの、基本的な楽しさ「遊びの形」は、3DダンジョンRPGだったように思う。
(画像は3DS版『真・女神転生IV』)
3DダンジョンRPGの「遊びの形」というのは、基本的にマッピングをコアとしている。ゲームがはじまると、マップを探索してダンジョンの形を明らかにしていく。ダンジョンの形を明らかにするので、当然、ダンジョン内のすべての場所を訪れることになる。
これはこれで面白い。3DダンジョンRPGが古典的なゲームジャンルでありながら、現代も新作が発売される程度に人気が出るというのも頷ける。ただ、本作ではこの探索要素が変化した。
本作では、マガツカや宝箱、さらにはHP/MPの回復を行ってくれる「マガツヒ結晶」、プレイヤーに特殊能力を付加していくための素材アイテム「御厳」をくれる「ミマン」などといった要素がマップ中に散在している。これらの要素があることで、「遊びの形」が従来の3DダンジョンRPGよりプレイヤーの選択肢をより豊かに変化させている。
3DダンジョンRPGにおける、探索時の選択肢は、「進む」「戻る」に集約する。もちろん、マップ的に行き先が2つ以上に分岐している場合もあるのだが、マッピング的にすべての場所を訪れる必要があるなら、結局、どの道へも進まざるを得ない。ルートによって訪れるタイミングが早いか、遅いかの差があるだけだ。このため、分岐に差し掛かった際、右に行くか? 左に行くか? 特に理由もなく、なんとなく決めることも多いはず。
しかし本作では、シナリオで目指すべき目的地があり、さらにそれとは別にマガツカがあり、アイテムを与えてくれる宝箱があり、「マガツヒ結晶」という回復アイテムがあり、主人公の強化に欠かせない「ミマン」がある。これらはプレイヤーの置かれた状況によって当然重要度が変化する。ゲームを進めたい場合はマガツカが最優先ポイントだが、その途中ダメージを受けてしまったら、一旦「マガツヒ結晶」で回復してから……と考えるプレイヤーもいるだろう。
もちろん、多少のダメージなど気にせずマガツカへ向かうプレイヤーもいるはず。つまり、本作のマップ探索では、プレイヤーなりの判断を下す要素が、「進行」「強化(プレイヤー/仲魔)」「回復」とこれまでの作品と比べて深くなっているのだ。
筆者は、本作のマップ探索に組み込まれた「判断」の要素によって、「女神転生」シリーズのローグライト的な指向がより強まったと感じている。ローグライトとは、古典RPGである「ローグ(ダンジョン探索型RPG)」の要素を引き継ぐゲームのこと。「ローグ」の要素をほぼストレートに踏襲する場合は「ローグライク」、部分的に引き継ぐ場合は「ローグライト」と表現される。
「ローグ」はまだグラフィックが満足に使えない時代のゲームなので、超がつくほど古典的な作品。だが、そのおもしろさは現代でも十分通用するため、様々なゲームにおいてその要素が取り入れられている。
では、「ローグ」のバトルは何がおもしろいのか? といえば、それは、「ランダムに変わりゆく状況」と、それに対する「判断のおもしろさ」だ。「ローグ」のバトルでは、プレイヤーが1ターン分の行動をすると、マップ内の敵も一斉に1ターン分の行動をする。これによって、敵が接近してきたり、敵から攻撃を受けたり、あるいはアイテムを発見したり……など、状況に様々に変化。
1ターン前は「次にこうしよう」と思ったことが、1ターン経過後の現在も有効とは限らない。常に最善の行動を考えなければならない。これが「ローグ」バトルのおもしろさだ。
『真・女神転生III』において組み込まれた「プレスターンバトル」は、緊迫感溢れる戦闘を楽しめるシステムであると同時に、シビアに「最善の行動」が求められるシステムだ。何せ、行動を間違えて敵にターンが回れば、下手すると死んでしまう。
「最善の行動」が求められるのは、何も1回の戦闘に限った話ではない。魔法の属性の比重が高いバトルシステムなので、敵が変われば有効なパーティ編成も変化する。このターンで使うべきスキルは何か? 現在出現する敵に備えて持っておくべき最善の魔法は何か? そのためにパーティーへ組み込むべき悪魔は誰か? そんなことを常に考えていなければならない。
判断に次ぐ判断。筆者が『真・女神転生III』以降、ローグライト的な方向性を持っていると感じているのはこの点だ。
さらに本作では「プレスターンバトル」に加えて、マップ探索においても判断の要素が強くなった。マガツカに向かうべきか? ボスを倒すべきか? 仲魔を増やすべきか? HP/MPを回復すべきか?
筆者が「よりローグライト的な指向が強まった」と感じているのは、こうした点からだ。そして、こうした「判断要素」の強化は、確実に本作へ楽しさをもたらしている。現代の東京とは大きく変わってしまい、未知の場所となってしまった「東京ダアト」。そんな場所を探索するのだから、「この先どうしよう」と、判断に迷うのは当然。
それがストーリーやビジュアルのみならず、ゲームシステムとしてより深く描かれるようになった。この点において本作はまさしく、「真・女神転生」シリーズの正当な続編であり、進化系といえるだろう。
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