ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~

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ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~


今回はsnowy_moonさんのブログ『雪見、月見、花見。』からご寄稿いただきました。
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ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~

皆さんは「ニセ科学」って聞いたことありますか?

その論理過程に飛躍があったり誤魔化しがあったりするのに、科学っぽい体裁や理屈を整えて、いかにも科学的根拠に基づくしっかりとした発見や発明かのように主張する理論や製品を指します。

「□□でガンが治る! ◯◯大学の△△博士が学会で発表!」とか、「最新科学で判明!△△のパワーでお肌が若返る」とか、「◯◯は身体に良い/悪い」とか、「△△で放射線が除去できる」など、色んなパターンがありますが、特に健康系の話に多いようです。有名な血液型性格判断もその代表例ですね。

それらの話はちょっと聞いてみれば、バイアス(偏見)たっぷりの統計が使われていたり、実験結果の数値の解釈が結果ありきで恣意的だったり、大事な情報や前提条件を隠していたりと、多くの場合、およそ暴論あるいは完成度の低いものです。真偽を決めるのを置いておいても、少なくとも疑問点は山ほど出てくるので、疑問点が全て解消するまでは、そのまま本気で信じたり実行したりという気持ちにはなかなかなりません。

しかし、そんな「ニセ科学」は実際に世の中に大変に広まっており、多くの方々に支持されています。
書店などで、この手の本が平積みされているのを見かける度、科学教徒を自負する私は非常に寂しく、悔しい気持ちになります。
この光景こそが、まさにこの社会に「科学の教え」が普及してないことを示す象徴だからです。

でも、不思議ですよね。

道行く人に「科学は好きですか?」とか「科学を信じますか?」とか聞くとおそらく多くの人は「はい」と答え、一部を除きあまり否定的な意見は少ないでしょう。
また、大衆だけでなく、政治の決定や裁判での判決などの、社会の中枢の重要な判断でも、多分に「科学的」であることが求められています。

そう、一見して、この社会の仕組みは「科学」を基軸に回っているように見えます。

やっぱり、この社会の人々は「科学」を大事にしているように見えます。

それなのに、なぜ「ニセ科学」は蔓延してしまうのでしょうか?

気になりますよね。
私も気になったんです。

ということで、今日は「ニセ科学」をテーマにボーッと考えて行きましょう。

【目次】
・ あなたが科学を好きな理由は何ですか?
・ 科学の栄光と繁栄
・ 宗教も「役に立つ学問」だった
・ 科学という名の宗教
・ 宗教と科学を分かつもの
・ 捨てる科学あれば拾う科学あり
・ 科学と社会の共生関係が崩れる時
・ 二位じゃダメなんですか?
・ 「ニセ科学」をバカにする人たち
・ 「ニセ科学」に対する科学的な闘い方
・ 科学と社会が仲良く付き合っていくために
(お急ぎの方は図と最後の章だけどうぞ)

あなたが科学を好きな理由は何ですか?

先ほども書いたように、みんな科学が大好きですよね。

特に無宗教で有名なこの日本においては、「神はこうおっしゃいました・・・」や「ご先祖様の霊がお怒りじゃ!」などより、「科学で証明された」の方がより好まれているのではないかと思います。

その証拠に、なぜ「ニセ科学」がわざわざ「科学」を名乗るかと言えば、そりゃオカルトっぽい話や宗教がかった話より、科学が人気があるからに他なりません(もちろん、オカルトっぽい話も好きな方もいっぱい居ますけれど)。

では、なぜこんなに科学は人気なんでしょう。
人気があるには、それなりに理由があるはずです。

例えば、あなたが科学を好きな理由は何ですか?

・・・もうここで白状してしまいますが、私がこの「ニセ科学」問題で、最もキーになってるのは、この「科学が好きな理由」だと思っているのです。

こう思っている方いませんか?

「科学は色んな技術を発展させて、私たちの生活を支え、社会を豊かにしてくれた。非常に役に立つ学問だ。だから重要だ」と。

私の想像ですが、「こう思っている方もいる」・・・どころか、「ほとんどの方がこう思っている」のではないでしょうか。

しかし、残念ながら、この「科学=役に立つ学問」という認識こそが、「ニセ科学」を蔓延させる全ての元凶なのです。

科学の栄光と繁栄

とはいえ、「科学=役に立つ学問」という認識であること自体は責められるポイントではありません。
歴史的に見れば、それも仕方がない流れだからです。

ガリレオ・ガリレイの地動説に対する厳しい宗教裁判に代表されるように、ヨーロッパでは中世までは科学は抑圧され、宗教が力を持った時代が長らく続いていました。
それが近代以降、力関係は逆転し宗教を科学が超える時代がやってきます。

なぜ、科学が宗教を超える力を持つことができたかと言えば、単純な話、「実際に目の前に起こる現象をちゃんと説明できているのは科学の方だったから」です。

「俺は自分の目で見たものしか信じねぇぞ!」

と言う人が今でも居るように、誰かに何かを信じさせるには「実際に見せること」が最も強力です。
惑星の挙動など実際に見えるものが、教会の説く天動説より、科学の説く地動説の方が上手く説明できるという単純な事実が科学に信憑性を与えたのです。
そして、天体などそんな遠くの物ばかりでなく、ニュートン力学など科学の理論を用いれば、現実に周りで起きている物体の運動や現象なども説明できるようになり、さらに物体の挙動の予測も可能になったことが決定的でした。
予測ができるようになると、それに基づいた様々な設計も可能になります。すると様々な道具や建物、そして機械などが作られるようになります。高度な道具や生産機械は社会をどんどん豊かにします。

実際に目の前で見えていることの原理を矛盾なく説明し、未来を的確に言い当て、しかも生活を便利にしてくれる様々な製品を生み出してくれる「科学」。
「科学」の中身をよく知らない者にも、その存在感は圧倒的であったことでしょう。
きっと、人々の目には「なんて役に立つ学問なんだ」と映ったことでしょう。
そんな「有用な学問である科学」が市民権を得るのは無理も無い話なのです。
そして、こんな流れだからこそ、みんなが科学を「役に立つ学問」として認識しているのも、これまた無理もない話なのです。

宗教も「役に立つ学問」だった

しかし、私たちが忘れてはいけないのは、中世以前の社会を支配していた宗教も役割の上では実は「目に見えるものを説明する教え」すなわち「役に立つ学問」を目指していたという事実です。

雷が落ちた時に「神様がお怒りだ」と説明したり、豊作だった時に「神様の恵みだ」と説明したりといった、世の様々な現象の背後に神様がいるという考え方、これらもれっきとした一つの「理論」です。
現代科学から見れば、これらは荒唐無稽で正しくないと考えてしまうかもしれませんが、少なくとも「現実に起こる事象を説明しようとしていた」という姿勢は科学と同様だということは無視できない事実です。
宗教も、あくまで彼らの理論に基いてですが、何とか「現実のものごとを説明し、予測しようとしていたこと」には間違いありません。

宗教が現実の事象にこだわっていたことを示す最大の証拠は「暦」です。

今でこそ、ほとんどの人にとっては、カレンダー上の日付なんて、日にちや季節を区別するための単なる記号のような意味でしかないかもしれませんが、多くの人が農業を営んでいた過去の農耕社会では、「暦」は農作物の成否、すなわち彼らの生死を分ける最重要情報の一つでした。
「暦」に基づき、いつ種を撒き、いつ収穫するか、その作戦を立てる上で、「暦」には正確性が求められます。
「暦」は神格化された国王・皇帝や国教である宗教組織が作成してきましたが、その「暦」がズレてしまえば、民衆の目にする現実と偉い人たちが言っていることがズレ始めることを意味します。
農耕を営む民衆は自然の中に生きていますから季節や天文に敏感で、彼らの目はごまかせません。一度「偉い人たちが言ってる暦、おかしいんじゃない?」と疑われてしまえば、権威が失墜してしまいます。
だから、「暦」はズレるわけにはいきませんでした。
そのため、歴史上、ズレを正すために、暦は何度となく改定されることになります。

私たちが現在に至るまで用いている「グレゴリオ暦」は元はといえば暦のズレを正すためにローマカトリック教会が作成したものです。
そう、宗教も実は「現実に沿うこと」や「役に立つこと」の重要性は認識していたのです。

科学という名の宗教

「現実に沿うこと」や「役に立つこと」の視点で見てみれば、宗教の時代から科学の時代に移ったのは、ただの「宗教の代変わり」なだけとも言えます。

「神様が物を動かしていた」と説明するより「運動方程式に基いて物が動く」とした方が精度も高く予測もでき便利が良い、「神様にお祈りを捧げる」より「科学理論の導く高度な道具や機械を発明する」方が実益がある――だから「科学」を信じよう。

先ほどから述べているように、このような人々の考え方は、中世の宗教支配を打ち破った近代の科学革命の時だけでなく、現代生きる私たちでさえ、思っていることなのでしょう。

しかし、これはただ、「宗教」より実益につながるものが出てきたから、「宗教」をの代わりに「科学」にしてみたと言っているのに過ぎません。
なにせ「宗教」を信じる時の構図と全く同じなのですから、これはただ「科学教」を崇めよう、と言っているのと全く変わりありません。
そして、ならばこそ、「科学」より役立つものがあるなら、乗り換えても不思議ではありません。

科学を宗教と言ってしまう向きには、反発もあるかもしれません。
「科学は現実に即して客観的に見る学問で、主観的な見解だらけの宗教などと一緒にするな」
そんな意見もあるでしょう。

ですが、どんな科学理論でも、実はどこかで信仰が入っているのです。
例えば、科学的に「実験でこういう結果がでた、従って◯◯という法則が成り立つ」などと主張した場合、「絶対にその実験が間違っていないのか」と聞かれると実は答えられません。
頑張って「何度も何度も実験しなおしたし、他の研究室の偉い△△先生も同じ実験をして同じ結果だったと言っていた」などと反論しても、「その実験全部失敗だったかもしれないじゃないか、偉い先生だってミスすることもあるだろう」と言われると困ります。
さらに「仮に実験が全部正しかったとしても、それはあくまで今日まで成り立つ法則で、明日以降、世界の法則が変わらないという保証は無いよね?」なんて追い打ちされるとお手上げです。

そう、どんな科学理論でも、「絶対に正しい」とは言えないのです。
理論にしようとすれば、どこかで必ず「いっぱい実験して同じ結果だったから、間違ってないってことにしよう」とか「今まで成り立っていた法則は、明日以降も成り立つってことにしよう」という決め付けが入ってしまうのです。

残念ながら、このような科学理論における「そういうことにしよう」は、宗教における「神様がやったってことにしよう」というような「信仰」と本質的には区別することはできないのです。

私たちはどこまでいっても、科学教徒なのです。

宗教と科学を分かつもの

ここまで述べてきたように、確かに「現実に沿うこと」や「役に立つこと」の視点で見てみれば、科学は宗教の代わりでしかありません。
理論の中でどこかで、「決めつけ」や「思い込み」が入ってしまうということも宗教と変わりないでしょう。

しかし、たとえ科学が宗教であったとしても、多くの宗教とは決定的に違うところがあるのです。
これこそが科学の本質で、醍醐味で、そして私が一番好きな点でもあります。

それは科学が「信じる宗教」ではなく、「疑う宗教」であることです。

多くの宗教では、「神様」など何かを絶対視します。
しかし、科学ではそれはありません。

目に見えているものも、実はたまたまそう見えているだけではないか、聞こえるものも実はたまたまそう聞こえているだけではないかと、疑います。
一回何かの実験である結果が出ても、すぐには信じません。
「本当に実験にミスはなかったか、もう一回やったら違う結果になるのではないか」
まず疑ってかかります。
既存の確立された理論や偉い先生の言ってることさえ疑います。
「有名な理論だけど、何か勘違いがあるかもしれない」「弘法にも筆の誤りかもしれない」
このように疑いながら、この世の真理を求め続けていくのが科学の教えです。

もちろん、全てを疑っていてはキリが無いので、ひとまずどこかで疑うのを止めるポイントを作ります。
「様々な実験結果を総合するとこの理論が最も確からしい」として、科学理論とするのです。
これは、あくまで暫定の理論なので、もしも将来、その理論に矛盾する確からしい実験結果などが出れば、その理論の方を破り捨てるのです。
どれもあくまで暫定であって、絶対ではない、それが科学のやり方です。

ですから、本当のところは仕方なくやっているだけで、科学からすれば上に挙げたような「そういうことにしよう」という決め付けの部分は本当は歯がゆくてしょうがないのです。出来る限り無くしたいけれど、なかなか無くせないので、とりあえずそうしているのです。
そういうことにしよう」という部分を崇めるどころか悔しく思っている点が、宗教の「そういうことにしよう」とは違うのです。

このような疑う姿勢が科学の本質で、その中でもなるべく確からしい事実を追究していく方法論「科学的手法」こそが、科学の神器になります。

ですから、科学教徒が唱えるべき念仏はこの一言です。
「本当に?」

捨てる科学あれば拾う科学あり

さて、お待たせしました。
ようやく本題の「ニセ科学」の話です。

上でも述べましたが、結局のところ、「ニセ科学」が蔓延する原因は、人々が科学を「役に立つ学問」と誤認してしまっているからに他なりません。
本当は、科学は「疑うことで真理を追究する学問」で、その中の暫定理論がたまたま「役に立っている」「役に立ちやすい」だけに過ぎません。
これらの考え方は似て非なるものです。

科学を「役に立つ学問」と思い込んでしまえば、科学技術の産物が事故などで被害をもたらした時、あるいは病や怪我など科学が自分の苦境を救ってくれなかった時などに、「役に立たないなんて、それは正しい科学ではない」と思ってしまいます。
つまり「信じていた科学」に裏切られたから、「他の信じられる科学」に移ろうとするのです。
そこに「ニセ科学」がつけ込む隙が生じます。
「役に立つ本当の科学」という幻想を求めるからこそ、結果的に「ニセ科学」が求められてしまうのです。
まさに、「捨てる神あれば拾う神あり」いえ「捨てる科学あれば拾う科学あり」ですね。

上でも述べたように、「科学」は信じるものではなく、疑うものです。
まず、科学を絶対視して信じる時点で科学的ではないのです。

「ニセ科学」問題の原因は人々の間に科学の謳う「疑う」という教えが行き渡っていないことが根本にあるのです。
その意味では、おそらくはほとんとの人が科学教徒でさえ無いということなんです。

これだけ「科学」を軸にしているかのように成立している社会なのに――です。

科学と社会の共生関係が崩れる時

この状況には科学教徒の方にも反省すべき点があります。
それは、社会的に「科学」の地位が広まっていることに油断して、社会の人々にしっかりと「科学」の教義を伝えることができていないことです。
今日、社会的に「科学」の地位が高いのは、あくまで「役に立つ学問」だからであって、残念ながら「科学の教え」を皆が理解し、共感しているからでは無いのです。

科学教徒が少なくても、このような一見「科学」を信奉する社会になるのは、科学と社会との間に、共生関係があるからです。
科学は社会に「役立つこと」を提供する見返りに「真理を追究するための費用」をもらいます。
社会は科学に「役立つこと」をもらう見返りに「真理を追究するための費用」を提供します。
この関係にお互いの価値観に対する理解は必要ありません。
ただ利害が一致したそれだけのことなのです。

(図)科学-社会 共生サイクル

ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~


(画像が見られない方は下記URLからご覧ください)
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ですから、当然、このサイクルが断ち切れた瞬間に衝突が起こるのです。
科学が「役に立つこと」を提供できなかったり、あるいは被害をもたらしたりすれば、社会は激怒します。
「約束が違うじゃないか!」と。
そして、言います。
「もういい、役に立たない奴は要らん。他をあたる!」と。
その先に居るのが「ニセ科学」です。
だからこそ、彼らは「本当に役立つ科学」を標して立つのです。

(図)科学が失敗した時

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↓ すると・・・

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↓ そして。。。

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お互いがお互いを理解し合っていないと、上手く行っている時はよくても、ちょっとしたことで関係が破綻してしまうのです。

二位じゃダメなんですか?

このような科学と社会の共生関係のもつれを象徴するのが、ある政治家の発言で有名になった「二位じゃダメなんですか?」です。
彼女はスーパーコンピュータ開発という最先端科学に「役に立つのか立たないのか」という当てるべきではない物差しを当てたということになります。
当然、彼女は多くの科学教徒からの反発を受けました。
私も当然その一人です。

しかし、私が聞いていてひっかかったのは、反発する人たちの中に「1位を目指さないと国際競争に負けるだろ」「日本は技術立国なんだから」という意見も多かったことです。
反論するために相手の論点に合わせた意見でしょうから仕方ないのですが、しかし、実はこれも本当は「役に立つか立たないか」の物差しでしかないことに注意が必要です。
コンピュータの開発は確かに科学の中でも実学に近いところですから、世界での順位も気になるでしょうし、実際に役に立つのかどうかという点ももちろん大事にしないといけません。
しかし、最も科学者を突き動かしているのは「役に立つのか立たないのか」でも、順位でもなく、「もっと先を知りたい、見てみたい」という好奇心なのです。

だから、もし純粋な科学教徒が居たなら、
「二位じゃだめなんですか?」という質問に対しては、
「順位なんてどうでもいい、ただこの先どこまでいけるか知りたいんだ」
というのが回答になるでしょう。

普段「役に立つか立たないか」でものごとを見ている方は、「本当のところを見てみたい」という好奇心で 活動している人たちもいるということにも気づいて欲しいのです。

「ニセ科学」をバカにする人たち

さて、これまで見てきたように、「ニセ科学」を蔓延させる下地が科学の「疑うこと」という教えが十分に社会に行き渡っていないことにあるのですから、科学教徒としては「疑うこと」を人々に普及させるのが「ニセ科学」を抑える目標になります。
そんな科学教にとって一番マズイのが「ニセ科学」を馬鹿にする人たちです。

「ニセ科学」に対して根拠を出して、否定するとか、反論するならいいんです。
そうではなくて、「ニセ科学」に対して「馬鹿だなー」とか「知的レベルが低い」などと罵り、人格までも否定するようなことがマズイんです。

なぜなら、「ニセ科学」を唱えることそのものは科学の教義に反していないからです。どんなにひどい理論でも、ただそれは「定説を疑う」という科学的態度に他なりません。
だからこそ、そんな「ニセ科学」に対して、ただ存在を全否定し、罵ることは、逆に「非科学的な態度」になります。
それは、「科学を信じない愚か者」と誰かを断じるのは、宗教の狂信者が「神を信じない愚か者」と魔女狩りをしているのと同じことだからです。
それは、科学教徒が最も忌み嫌うはずの「決めつけ」と「思い込み」に満ちた「宗教裁判」をやっているのと変わりなく、そして常に疑い続けるべき「科学」を絶対視してしまっているのです。

確かに向こうも「科学」を罵倒しているかもしれません。腹が煮えくり返るほどムカつくかもしれません。
でも、だからといって「ニセ科学」に対して「非科学的態度」で対抗しては、同じレベルに落ちてしまっているだけなのです。
そして、このような「ニセ科学」罵倒をやればやるほど、科学の本質は失われ、社会への「疑うこと」という科学の教義の普及はかえって妨げられてしまいます。
「ニセ科学」を引っこ抜きながら、その下地を耕し栄養を与えているようなものなのです。

「ニセ科学」に対する科学的な闘い方

結局のところ、「ニセ科学」が出たら粛々と淡々と疑問点をあげつらい、反論する他ありません。
「そんな生易しいことしてちゃ抑えきれない」
そう言われるかもしれませんが、それも仕方が無いのです。

「科学」にとってすれば「ニセ科学」がいくらか普及した時点で負けなのです。
「ニセ科学」を「疑わず」に「信じてしまった」人が多数出た時点で負けなのです。

「ニセ科学」に科学的に対抗するのであれば、「科学的態度」を「ニセ科学」が蔓延する前に先に人々の心に植えつける他ありません。
「科学的態度」が身についた方なら、疑問点だらけの「ニセ科学」なんて「本当に?」と信じないはずだからです。

「ニセ科学」に対抗するには、彼らを殺すのではなく、しかし許容せず、発育しにくくする、それしかありません。
異論の存在そのものは否定せず、しかし疑わしきは同意しない、それが科学だからです。

そう、これは実のところ、単なる布教合戦です。

いかに科学教徒を増やせるか、そういう闘いなのです。
それなのに、布教すべき相手をいきなり「異端審問」にかける宗教がいるでしょうか。
異端も何も、まだその宗教の教義も知らない者を責め立ててどうするのでしょう。
しかも、結局、教義に反したやり方で処刑するなんて、もう無茶苦茶です。

そんなことでは、歴史上、異教を認めず血生臭い戦争や事件も多数起こしていますが、各種宗教の方が基本的な布教能力に関しては科学よりよっぽど上手だと言えます。
科学なんて、結局のところ、その本質は理解されず、学校でもろくに教えられず、ただ役に立つからといって利用されているだけなのですから。

科学と社会が仲良く付き合っていくために

「科学」と「社会」の罵り合いは、男女関係のもつれでよく聞かれる罵り合いに似ています。

科学「何よ、別れるって、結局私の体目当てだったのね・・!」

社会「ああ、そうだよ、そこそこスタイルがよくて可愛くなきゃ、お前みたいなつまらん女を誰が相手にするかよ。大体、お前だって俺の金目当てだったろうが」

科学「う、それは・・・」

社会「ほら、そうだろうが。こないだも、ちょっと奢るのケチっただけで、ビービー泣きやがってよ、俺はお前のお財布じゃねーんだよ。まあいい、もうお前は用無しだ、もう新しい彼女もできてるんだ」

ニセ科学「ニセ子でーす♪」

科学「ちょっと、その女はっ・・・!確かに一見美人かもしれないけど、中身はとんでもないクズ女で有名なのよ。社会、悪いことは言わない、こいつだけはやめときなさい!」

ニセ科学「あっらぁー、ひどい言い草ね~。社会君、わたしこわあーい☆」

社会「おいおい嫉妬か、見苦しーな。この子はなお前よりカワイイし、文句も言わず俺に尽くしてくれる、お前なんかより何倍もいい女なんだよ。科学、いいからさっさと消えな、俺の前からよ」

科学「・・・そんな」

恋愛と同じで、結局、科学と社会が上手く付き合っていくには、お互いにお互いの価値観を尊重して、理解し合う努力を続けるしかないのです。
本当は価値観が違うのに、話し合いもせず、「相手が分かってくれるはず」または「分かってくれて当然」と思った時に、すれ違いという名の隙ができ、こっそり2人の関係を狙う何者かに襲われてしまうのです。

もちろん、襲う者も悪いのかもしれません。
ですが、隙を作った責任だって、間違いなくその2人にあるのです。

執筆: この記事はsnowy_moonさんのブログ『雪見、月見、花見。』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年04月01日時点のものです。

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