『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンド来日講演 全文書き起こし(1/2)

科学未来館で講演するダイアモンド氏

 世界的ベストセラー『銃・病原菌・鉄』でピュリッツアー賞を受けた進化生物学者ジャレド・ダイアモンド氏が2013年2月11日、日本科学未来館で講演を開いた。講演では、新著『昨日までの世界』の内容をふまえ、高齢化社会に我々がどうすべきかを部族社会をヒントにして語った。ニコニコ生放送でも一部始終が配信されたこの講演を、今回は全文書き起こして紹介する。

■ 「日本にまた来られたことを嬉しく思っています」

 本日、日本にまた来られたことを嬉しく思っています。3回目の訪問になりますが、日本はとても美しい国です。皆さんは幸運なことに日本に住んでいるわけですが、私は残念なことに短い間しかご訪問できないのです。今回は妻と一緒に来日しました。私の妻には日本人の親戚もおり、親戚との再会を嬉しく思っています。

 これから講演を始めますが、それが皆さんにとって実用的な価値があるかどうか知りたいので、まず最初に挙手をお願いしたいと思います。2つの質問をしますので、どちらかに手を上げてください。

 皆さんの中で、「65歳以上の方」、もしくは「65歳以上長生きをしようと思っていらっしゃる方」、あるいは「ご両親や祖父母が65歳以上まで生きた、もしくは現在65歳以上でご存命の方」、これらのグループに入る方は挙手してください――たくさんですね。いま手を挙げてくださった皆さまは、私の話に実用的な価値があると思われるでしょう。

 では「65歳以下の方」、または「65歳以上は長生きしたくないと思っていらっしゃる方」、そして「ご両親や祖父母が65歳までは生きられなかった方」、こちらのカテゴリーの方も手を挙げていただけますか――あまりいらっしゃいませんよね。あるいは、恥ずかしいと思っていらっしゃるのでしょうか……。確かに、皆様には、個人的には直接関係していないかもしれません。しかし、それでも私の話す内容は興味深いと思っていただけると思います。

■ 「高齢者問題」を部族社会から考える

 それでは、今日は、現代の伝統的社会で年をとっていくことについて話したいと思います。このトピックは、私の最新の著書『昨日までの世界』ではわずか1章にしか書かれていません。その中では、伝統的な小規模部族社会と、われわれが住んでいる大きな現代社会をあらゆる側面で比較しています。この新しい本の他の章では、子育て、高齢者、健康と病気、危機とそれに対する反応、紛争解決、戦争、宗教、多くの言語を話すこと――こういったものも比較しています。

 さて、ここにお集まりの皆さんもまた、大きな先進工業国家に住んでいます。決まった場所に定住し、中央集権の国家が決定を行い、国民は読み書きができ、本やインターネットから情報を取る――そんな社会に住んでいるわけです。このような社会では、ほとんどの人たちが60歳以上まで生きていて、食べ物は自分たちが作らず、他人が作った物を食べて生きていると思います。

 しかし、忘れてはいないでしょうか。こうしたさまざまな習慣は、600万年にもおよぶ人類の歴史の長い進化の中では、ごく最近に起こったものです。いま申し上げた色々な習慣は、1万1,000年前には、世界のどこにも存在しませんでした。その中のいくつかは――例えばインターネットの登場や、ほとんどの人たちが60歳以上まで生きている状況など――わずか100年、もしくは10年から20年の間に起こった大きな動きです。つまり、われわれの先祖は伝統的な部族集団の中でずっと生きてきたのであり、人類の進化という時間軸を考えれば、ほとんど昨日までそういう暮らしをしてきたとも言えると思うのです。

 500年ほど前に、ヨーロッパ人が世界中に進出していきました。それまでは、すべての大陸の大部分に存在していたのは、部族社会です。最近では、部族社会も国家の管理下に置かれるようになっています。まだ国家の管理下に置かれていない部族社会はありますが、ニューギニアやアマゾン川の流域といった限られた地域にしかありません。しかし、部族社会は人類の歴史のほとんどの社会形態だったわけで、現代の大規模社会よりもはるかに多様性を持っています。大規模社会では共通の特徴として、政府があって、ほとんどの国民同士は個人的な面識がありません。アメリカ、中国、日本、イスラエル、ドイツ、アルゼンチン……どこであれ、大規模社会にこの傾向は見られるわけです。

■ 部族社会は社会の「自然実験」を何千回も行ってきた

 それに対して、部族社会には、たくさんの大きく根本的に違う点があるのです。部族社会というのは、どうすれば人間社会を運営していけるのかという、ある意味での自然実験を何千回も行ってきた結果、非常に多様性が高い社会運営のノウハウが実践されているのです。そこから学べることは多いと思います。

 例えば、いまの日本において「子どもの自由がどこまで許されるべきか」を考えてみましょう。そのときに、「自由が少ない、もっと放任するべきだ」と考えていたとします。しかし、ここで日本人たちを自然実験の中に置くことはできません。

 例えば、47都道府県の中で実験をするとして――火やナイフを与えてもいい16県を選び、別の16県はちゃんと親に従わなければいけない厳しい県にして、それ以外は現状のままと決めて、3つの集団に日本を分けたとします。そして、子どもたちを実験対象にしたとしましょう。
そうすれば40年後には、対象の子どもたちが大人になり、その比較から自由を少なくした方がいいのか、与えた方がいいのか、いまの程度でよかったか、という質問に答えることができるかと思います。でも、残念ながらこのような実験はできないのです。

 しかし、伝統的社会では、自由な環境で子育てがされている社会や、そうでもない社会というのが、事例としてたくさんあるのです。伝統的社会の実践は、いまの日本やアメリカの社会よりも多様性があるのです。そこから学べる可能性はあるし、実用性も高いと思います。高齢者への対応の仕方や、どうやって健康を維持しているかなど、われわれがいま心配しているさまざまなことについても伝統的社会から学べるはずです。

 部族社会は原始的で、また惨めで、軽蔑(けいべつ)されるものとするのは間違っています。しかし、幸せで平和な社会だと理想化するのもまた、違います。部族の習慣について知ると、中にはぞっとするものもある一方で、いいなと思ったりうらやましいと思うものもある――そして、中には自分たちでも取り入れることはできないものかと思うものもある、というわけです。

■ 高齢者を遺棄する5つの方法

 では、西洋で高齢者をどう扱うべきかを大局的に理解するため、日本やアメリカで行われてきたことを説明します。

 私には、フィジー人の友人がいます。友人はアメリカ社会について、「感心することもあったけど、嫌だなと思うこともあった」という感想を私に教えてくれました。最も嫌だと思ったというのは、高齢者に対する対応・処遇です。友人は非難がましい口調で「なぜ君たちアメリカ人は、お年寄りを捨てたりするんだ」と私に言いました。彼が言っていたのは、アメリカの高齢者のほとんどは最終的に、子どもたちとは別に住み、また友達とも離れて暮らすことになる。そして、高齢者施設に住んでいる人がとても多いという、そんな状況です。

 フィジーでは、これとは違うのです。他の伝統的社会でも違います。高齢者は子どもたちとずっと同居したり、親戚や友人たちとともに生涯生きていくパターンが見られるそうです。ただし、高齢者の取り扱いや処遇は、伝統的社会では色々とあります。現代社会に比べてはるかに悪い事例もあれば、ずっと良いものもあります。

 多くの伝統社会では、5種類方法のうちの1つで、高齢者を遺棄し、社会から排除してしまうのです。その方法の中には間接的なものから、最悪な場合である直接的なものがあります。1つ目の、最も消極的な方法は、無視すること――つまり、高齢者が死ぬまで食料も与えず、不衛生になっても面倒を見ないというやり方です。2つ目のやり方は、集団が野営地から別の場所に移動するときに、置き去りにするやり方です。3つ目の方法は、高齢者に自発的に自殺をさせたり、自殺教唆する方法です。4つ目はもっと直接的な方法で、嘱託殺人です。嘱託殺人の1つの事例として、カウロン族というニューギニアにいる部族をあげましょう。この部族では、夫が死んだ未亡人は兄弟に、もしくは息子に自分の首を絞めてくれと頼むのです。座って自分で首に縄を巻き、そして自分の家族に首を絞めてもらうのです。要するに、本人も含めて互いに協力して、自殺しているわけですね。そして5つ目の方法ですが、これは直接的な方法です。本人の同意協力なく殺害するというものです。

■ 高齢者を遺棄する部族社会とは

 では、子どもが親を遺棄したり殺害したりするのは、どんな部族社会において起こるのでしょうか。それは主に2つの環境下で起こります。

 1つ目は、移動型狩猟採集民の間です。彼らが1つの野営地から別のところに移動して行く際に、物理的に自立歩行ができない高齢者がいたら連れていけないわけです。健康な若い人たちは、自分の子どもや荷物を背負っていかなければならず、高齢者を背負えないのです。

 もう1つは、北極圏や砂漠のような、ギリギリの不安定な環境に住んでいる人たちの間です。定期的に食料不足が起こり、ときには全員が生き残るための食料がない――そんな状況下で住んでいる人たちの間で起こるのです。いま手元にある食料は、生き残っている健康な人たちのために、あるいはやがて大人になる子どもたちの成長のために、食料を取っておく必要があるのです。

 現代のアメリカ人や日本人にとっては、病気の配偶者や高齢の親を遺棄したり殺害したりするなんて、ひどいことだと思う人の方が多いでしょう。でも、伝統的社会に、他のどういう方法があるというのでしょうか。彼らは「残酷な選択」を迫られているのです。

 このように高齢者を扱う部族の話を聞いて、彼らを責める気持ちになっている皆さんには、ある言葉を紹介したいと思います。それはウインストン・チャーチル元英国首相のものです。以下に引用するのは、第二次大戦のレイテ沖海戦で究極の選択を迫られた、日本海軍の栗田艦長のことについてのものです。栗田艦長は、2つの同程度のひどい選択の中から1つを選ぶ必要がありました。チャーチルは栗田艦長にこんなことを言っています――「同じ試練を耐え抜いた者だけが、彼を審判することができるだろう」、と。

 実際、ここにいる私たちの多くはすでに、もしくはこれから、遊牧民とか北極や砂漠に住む人たちと同じような試練に直面することがあると思います。皆さんが医師や、もしくは高齢者の医療や介護に責任を持つ立場になったとします。皆さんが病気の配偶者や親に、さらに積極的治療をするかどうかを決めなければいけないとしましょう。その時に、そういった積極的治療をやめて「今後は鎮痛剤や鎮静剤の投与だけでいいです」と医師に告げなければならないような状況を想像してみてください。

■ 高齢者を大切にする社会の条件

 ここまでとは逆の例もあります。高齢者の対応において、喜ばしい状態の社会もまたあるのです。例えば、私がこの50年間フィールドワークをしてきたニューギニアの社会、フィジーの友人の村です。その他にも、世界中のさまざまな伝統社会で、高齢者はとても大切にされていて、食事もちゃんともらい、価値ある存在として、いてよかったと思われています。子どもや親戚、旧友とも近い場所に住んでいます。

 社会によって高齢者の対応が大きく異なるのはなぜか。その理由は2つあります。1つ目は高齢者を有益だと見ているかどうか。2つ目はその社会の価値観です。
まず「高齢者の有用性」についてですが、私自身は高齢者は伝統的社会においても、現代社会においても、有用な役割を担い続けていると思います。高齢者ケアの究極的な理由は、まさしくそこにあります。

 例えば伝統的社会では、食料の獲得という問題があります。また孫の子守というのも古くから続くことです。高齢者が孫の子守をしてくれれば、子ども夫婦は育児の心配をすることなく、子どものために狩猟採集に出掛けることができるのです。それから、高齢者は物作りの価値も提供できます。熟練の技術で、道具や武器、壺や織物などを作ってあげることもできます。

 伝統的社会では一般に指導者は高齢者で、一番知識があります。宗教、医療、政治、歌、舞踊についてもよく知っていて、「部族のお年寄り」という言葉が、部族の指導者を意味する言葉になっているほどです。現代社会でもそうで、歴代のアメリカ大統領の平均就任年齢は54歳です。

 最後に、伝統的社会に生きる高齢者が果たせるもう1つの大きな役割があります。文字のある社会に住む私たちには思いもつかない役割です。何かを調べるとき、いまでは本やインターネットを使うのが普通ですね。しかし文字体系のない伝統社会では、高齢者が生き字引になるのです。彼らは、情報源なのです。高齢者の知識が社会全体の存続の決め手となる場合さえあります。稀にしか起きない危機のとき、過去に同じ経験をしているのが高齢者のみという状況があるのです。

■ 盲目の老婆が持つ「フンギケンギ」の知識

 例えば、私は1976年に太平洋のポリネシアにあるレンネル島に行きました。鉱山開発計画の環境アセスメントのためです。調査の一環で、島民に森林の植物1つ1つの種の名前をポリネシア語でなんと呼ぶのか教えるように頼みました。彼らは1つ1つの名前を教えてくれ、さらに食用になるのかならないのかも教えてくれました。島民は「この木のフルーツは食べられる」「あのフルーツの実は、コウモリは食べるけれど、人間は食べられない」などと説明してくれたのです。
そうして、彼らはある1本の木の前で「この木の果物は、フンギケンギの後だけで食べるんだよ」と言ったのです。私は「フンギケンギとは一体なんなのか」と思いました。また別の木の前で、やはり「フンギケンギの後だけで、この果物は食べられるんだよ」と説明します。フンギケンギ――これは一体なんなのかと、私はとても興味を持ちました。

 そこで「フンギケンギとは何ですか?」と尋ねてみると、村人たちがある小屋に案内してくれたのです。中には80歳ぐらいの高齢の女性がいました。ほとんど目も見えず、歩けないという状態でした。

 村人の説明によると、この高齢の女性が10代のとき、レンネル島は最大級のサイクロンに襲われたそうです。そのサイクロンを、彼らは「フンギケンギ」と呼んだのです。「フンギケンギ」は、レンネル島の畑という畑、森という森をすべてなぎ倒し、島は飢餓の脅威に襲われたそうです。そのとき、普通ならば食べないある種の果物を食べて生き延びたという経緯があったのだそうです。その経験を持っていたのが、高齢のその女性でした。

 太平洋のサイクロンの歴史を調べると、レンネル島が「フンギケンギ」に襲われたのは1910年です。計算してみると、私が訪問したときに島の最高齢者だったあのおばあさんは10代だったはずです。万一またレンネル島に大きなサイクロンが来て、畑も森林も破壊されたならば、島民を飢餓から守るのはまさしくあのおばあさんの記憶になります。食べる物がなくなったとき、普通は食べないけど危機の場合は食べても安全な果物を記憶しているわけです。彼女の記憶、彼女の知識こそが島民を救うわけです。再び畑で作物を生産できるようになるまで、彼女の知識が島民を救うことになるのです。

 現在のわれわれは、口承の記憶には依存していません。本を読んだり、あるいはインターネットでGoogle(グーグル)で調べてしまいます。私は何年も太平洋の島を研究してきましたが、このレンネル島での小屋で会った、目も足も不自由な高齢の女性には圧倒されました。文字を持つ前の人類史における高齢者の知識とは、なんと重要なのだろうかと考えました。文字を持たない伝統社会において、高齢者の知識はその社会の生存さえも左右するのです。

■ 高齢者を大事にする価値観を持つ社会

 ここまでの例は、高齢者が伝統的社会で役に立つという例でした。その評価の違いで、高齢者の世話をするか否かへの対応も決まってきます。これに加えて、もう1つ高齢者への対応を左右するのは、その社会の文化の価値観です。これはある意味で、有用性とは独立した形で高齢者への対応と結びついています。

 例えば、中央集権が長く続いている大規模社会では、高齢者を尊ぶことを重要視しています。特に東アジアでは、儒教の道徳の「孝」――親孝行の「孝」ですが――と関係しています。これは高齢者の親への絶対服従であり尊敬、そしてその親の面倒を見ることです。他の文化でも高齢者を尊びますし、アメリカでもそうです。

 ただし、高齢者を尊ぶような価値観である「孝」や家長制を持つ社会と比較すると、アメリカでは高齢者の立場が低い現状があると思います。たとえば、アメリカでは、失業中の高齢者は新しい職には就きにくい状態にあります。

 ボストン大学の社会学者が、雇用主に履歴書を送り、その対応を比較する実験を行っています。すべての履歴書は偽名で、1つの点以外はほとんど同じ内容を送りました。その1つ違う点とは、年齢でした。半分は25歳から40歳、もう1つは40歳から60歳の年齢を書いたのです。調査の結果わかったのは、25歳から40歳の人に会社側から面接に来てほしいと連絡が来た割合は、45歳から60歳の人の2倍以上だったということです。

 もう1つ、アメリカにおける高齢者の地位の低さを示す例があります。これはアメリカの病院で導入されている、医療の年齢別資源配分という明文化された方針に見て取れます。これは残酷な、そして歪曲的な表現だと思います。これは、高齢者より若い患者を優先する決まりなのです。つまり、病院の資源には限りがあるので、例えば、特定のベッドしか空いていない場合、もしくはドナーから移植用の心臓が1つだけ届いた場合、あるいは外科医が時間的に特定数の患者の手術しかできない場合――こういう場合には、高齢者より若い患者を優先する決まりなのです。理由は、若者の方が社会にとって価値がより高く、長く生きられるからです。若者は高齢者に比べて人生経験が豊かではないにもかかわらず、です。

■ アメリカで高齢者が尊敬されない理由

 アメリカで高齢者に低い地位が与えられているのには、いくつかの理由があります。東アジアで高齢者の地位が高いのは、アジアでは儒教の「孝」、親孝行の「孝」の概念からがあるからです。それに対して、アメリカの高齢者はアメリカ的な価値観によって形成されています。その価値観の1つは、プロテスタントの労働倫理です。働くことに価値を置くため、働いていない高齢者は尊敬されません。

 もう1つの理由としては、アメリカには自立性や個人主義を美徳とする価値観があることです。もはや自立していない、もしくは独立していない高齢者を、無意識的にアメリカ人は下に見てしまうのです。

 3つ目の理由は、若さへの礼賛・奨励です。広告を見ればわかると思います。コカ・コーラやビールのCMや広告には、いつも笑顔の若者が出ています。高齢者も若者と同様、コーラやビールを買っているにもかかわらずです。皆さん、これらの広告で75歳以上の人が笑顔で出ているのを見たことがありますか?――そんなもの、見たことありませんよね、たぶん。白髪の高齢者が出ているアメリカのCMや広告は、老人ホームや年金関係のものだけです。

■ 高齢者の立場が悪くなっていく現代社会

 とはいえ、現在の社会の方が良いこともあるのではないでしょうか?――あります。でも、良いことは少ないと思いますし、悪くなっていることの方が多いかもしれません。

 良いことは、より長く人間が生きられ、高齢者でもよく、健康状態で過ごせ、娯楽の機会も豊富であることです。高齢者向けの施設や、介護プログラムが充実している点も挙げられます。

 悪いことは、かつてなく高齢者の数が増えていて、若者の数が減っているという残酷な事実です。高齢者は数少ない若者の負担となっていて、それぞれの高齢者の価値が下がっているのです。レンネル島を私が1976年に訪問したとき、1910年の巨大サイクロン「フンギケンギ」をどうやって生き延びたかを覚えている人は、たった1人のおばあさんだけでした。でも、1976年のフンギケンギを経験した方が何百人もいたとしたら、一人一人にはさほど価値はないと言えないでしょうか。

 もう1つ悪くなっていることとして、現代の日本やアメリカでは、年齢を重ねることで高齢者と社会とのつながりがなくなってきてしまっていることです。アメリカ人は5年に1度は引っ越ししていますから、しまいには高齢者は若いころからの友人と離れて暮らすことになりますし、家族とも離れて暮らすことになります。また、定年退職制度もあります。働かなくなると職場の友人関係を失います。仕事に関係した自尊心が失われるのです。

 最も悪くなっているのは、客観的に見て、伝統的社会よりも現代の西洋社会の方が高齢者があまり役に立っておらず、有用性も下がっている事実です。読み書きできる人が増えて、高齢者の”生き字引き”としての価値が下がってきました。何か情報が欲しいとき、皆さんはどうしていますか。本を調べたり、インターネットを検索したりしますよね。高齢者を見つけて、何か教えてくださいと尋ねるのはあまりしませんね。

 最後に、伝統的社会では技術の進歩が遅かったため、ある人が子どもの頃に学んだことは高齢者になっても使える内容でした。しかし、現在のように技術革新のスピードが速くなると、子どもの頃に教わったことは、60年後のいまでは役に立たなくなっています。したがって、現在は子どもであっても、60年後には使えない人になっているのです。われわれのような現在の高齢者も、現代社会で生きる上で必要な技術は身につけていません。

 例えば、私は15歳のとき、掛け算が抜きん出てできました。掛け算表を暗記していたからです。対数の使い方もわかっていましたし、計算尺も素早く使いこなせました。しかし、いまや掛け算表も、対数表も、計算尺も、まったく使わなくてよいのです。なぜかといえば、誰でも電卓を使えば、8桁の掛け算であれなんであれ、正確にすぐ計算できるからです。

 現在、私は75歳です。実は、毎日の生活に必須のことがなかなかできずにいます。私の育った家庭では、1948年に初めてテレビを買いました。操作法は、電源、音量、選局の3つのつまみしかなかったので、簡単ですぐにわかりました。しかし、いまや家でテレビを見るだけでも、41個ものボタンのついたリモコンを利用しなければならず、本当にわかりにくいのです。テレビを見るために、25歳の息子に電話をして、操作方法を教わる始末です。41個もボタンがついたリモコンなんて、私には使えません。

■ 米国で高齢者の生活を改善する方法

 では、米国で高齢者の生活を改善するために、何ができるのでしょうか。残りの時間で、いくつか提案をしたいと思います。

 高齢者の1つの価値として、子どもの世話をハイクオリティで提供できることです。いまや女性が仕事に出ていて、若い人はなかなか子育てに専念できなくなっています。もちろん、アメリカではお金を払ってベビーシッターに頼んだり、日中に子どもの面倒を見てもらえる保育施設を使うこともできるのですが、祖父母の方がより良い子守をしてくれます。祖父母は、孫を愛しているため、やる気に満ちていて、子育ての経験も豊富です。孫と一緒に過ごしたいと思っているし、ビジネスではないですから、「割のいい仕事が見つかったから、ベビーシッターは辞めます」と宣言されることもありません。ただし、祖父母が孫のベビーシッターをするのが、難しい局面も出てきています。最近、若者が子どもを持つ年齢が上がっているので、孫が生まれるときには70代や80代になっていて、体力的に孫を見るのはきつい状況になってきています。

 高齢者の価値の2つ目は、世界情勢が変化して技術が発展したことで、高齢者の価値が失われてきた状況に関係しています。実は、このような状況は、社会における高齢者の価値を上げている場合もあるのです。なぜなら、社会が急激に変化しているがゆえに、社会に稀にしか起こらないけれども、また起こる可能性のある状況というものを、高齢者が経験しているからです。どういうことでしょうか。

 例えば、70歳以上の方は大恐慌と呼ばれた出来事を経験しています。戦争を経験しているし、食料やガソリンの配給を経験しています。また、原爆を経験した人もいるかもしれません。しかし、いまの選挙民や指導者は、もはや個人としてはこうした出来事を経験していないのです。しかし、こうしたひどいことは繰り返す可能性があります。また起こらなくても、過去の経験にもとづいて準備計画は立てられます。高齢者は、若者が経験していないことを実際に経験しているのです。

 その他にも、高齢者の価値について認識する必要があることがあります。それは、当然ながら高齢者には、もはや上手くできなくなっていることがある一方で、逆に若者よりもうまくできることもあるのだということです。それを認識しなければいけません。アメリカでも日本でも、社会の課題として高齢者の方が上手いことを活かす必要があります。

 もちろん、年齢とともに下がっていく能力もあります――例えば、体力、スタミナが必要とされること、野心、限定範囲下での新しい推論などです。DNA構造の解明などはたぶん35歳以下の科学者に任せた方がいいでしょう。しかし逆に、年をとるとともに優れてくる属性もあるのです。経験が増えると人間関係の理解が進みますし、他人を助けるときにも自分のエゴを出さずに他人を助けたり、アドバイスができるのです。大規模データベースにいての学際的な思考も高齢者は得意です。生物地理学や比較歴史学は、60歳以上の学者に任せてもいいかもしれません(笑)。

 このように、高齢者の方が優れている点があるのです。監督する、管理する、アドバイスする、戦略策定する、教える、統合的に物事を見る、などです。これらの優れたところを実際に私の友人も持っています。60代、70代、80代、90代もです。現在でも私の高齢者の友人は農業を続けていたり、弁護士や外科医として活躍しています。監督や管理やアドバイス、あるいは戦略策定に関わっているからです。

■ 伝統的社会から学べる様々なこと

 ここまでの内容をまとめましょう。多くの伝統的社会は高齢者をうまく活用して、より満足の行く生活を、現代の大規模社会よりも上手くやっています。逆説的なのは、いまや以前よりも高齢者が増え、より健康な日々を送り、より良い医療を受けているにもかかわらず、ある意味では高齢者は恵まれていない場合があることです。アメリカでも現代社会においては、高齢者の状況があまりにも不幸な場合があります。だからこそいま、伝統的会における高齢者の生活から学ぶことがたくさんあるのではないかと思います。

 伝統的社会における高齢者の生活で言えることは、もちろんその他の多くの側面でも言えます。ただし、私は「農機具や金属の道具を捨て、狩猟採集の生活様式に戻ろう」と言ってはいません。「小規模部族集団で生活をして、隣の部族と戦え」と言っているのでは決してないのです。今日のわれわれの方が明らかに小規模な伝統的社会よりはるかに恵まれている、ということはたくさんあります。われわれの寿命の方が長いですし、物質的にも恵まれています。また、暴力の蔓延度合いもいまの方が小さくなっています。

 ただ、同時に伝統的社会の人々についても、尊敬すべき点や学べる点があります。彼らの生き方は、われわれよりも社会的にとても豊かです。もちろん、物資的には貧しいかもしれませんが、伝統的社会の子どもたちは自信と独立心を持っていて、社会的スキルもわれわれより上なのです。また、大人たちは糖尿病や心臓疾患、高血圧、脳卒中、その他の非感染性の疾患で死ぬことはまずありません。この部屋のほとんどの人間は、いま挙げたような疾患で亡くなることが多いと思います。もちろん、糖尿病やその他の疾患にかかるほど彼らの寿命が長くないと言っているわけではないです。同じ年齢で比較しても、伝統的社会に暮らす人々は糖尿病、心臓疾患、その他の非感染性の疾患にかかる割合が、日本人やアメリカ人よりの同じ年齢より低く、つまりは”かからない”のです。現代社会のライフスタイルのために、われわれはかかりやすくなっているのかもしれません。伝統的社会の特徴とは、そういう風な疾患から人間を守ってくれるのです。

■ 新著『昨日までの世界』で扱った話題

 『昨日までの世界』では、私は1つの章を費やして、高齢者について書きました。紛争解決の方法といった、その他の問題についても、私の新しい本には書いてあります。伝統的社会では調停や和解をしたりして、お互いの関係を復活させます。現代の西洋社会のように、裁判でどちらが正しいか間違っているかを争ったり、、刑務所に入れることで罰を加えたり、あるいは加害者への憎悪をずっと続けるのではなく、より迅速に解決を図ることができるのです。

 また、子育てもわれわれの現代社会と伝統的社会で違います。私と妻も自分の子育てに、伝統的社会の経験を活かしました。伝統的社会では子どもを横に寝かせて抱きません。運ぶときには前を向かせて抱き上げた形で、進行方向に赤ちゃんの顔を向けます。アメリカとヨーロッパでは、赤ちゃんが泣いたらどうするかの論争があります。泣かせたままにするのか、30分、あるいは10分待ってから抱き上げればいいのか。でも、伝統的社会では赤ちゃんが泣いていたら、もう10秒くらいで駆け寄り――もしかしたら3秒かもしれませんが――抱き上げて、なだめるのです。
伝統的社会では、村の大人は一緒に子育てをします。おじさん、おばさん、その他の大人と一緒に育つことで、社会的スキルを学びます。お父さんお母さんだけではない大人からも学べるのです。

 リスクに対しても、対応の仕方が現代社会とは違います。日本とアメリカでは、リスクをあまり感じないことが多いかもしれません。何か間違いが起きたなら、警官や医者が助けてくれるというわけです。しかし、ニューギニアの伝統的社会は違います。警官や医者もいません。リスクをそれだけわかっているのです。アメリカ人や日本人にはわかっていないリスク認識の仕方をしています。
現代のアメリカ人は、テロが最も怖いことだと思い、飛行機の爆破などを心配してしまいます。しかし実際には、多くの人はテロリストに殺されるのではなく、自動車事故や階段で転ぶ事故に遭う方が多いのです。シャワーを浴びるときだって浴室で転ぶ危険性があります。日常で本当に心配すべきリスクは違うところにあるのです。今朝も私はテロリストの心配はしていません。それよりも、シャワーで転ばないように気をつけました。

 また、宗教の歴史も伝統的社会は違います。『昨日までの世界』の中ではこれから30年後に宗教がどうなっているかについても言及しました。最後には、多言語で学ぶことも書いています。アメリカでは――これは良くないことなのですが――多言語を教えるのは混乱すると考える人がいます。でも、ニューギニアではほとんどすべての人が3言語以上を話します。3言語どころか、5言語、6言語を話す人も多くいます。。実は多言語話者であることと、アルツハイマーの予防には関連性があると言われています。第2言語を学ぶだけで、5年間くらいはアルツハイマーの罹患(りかん)を延ばすことができるという研究もあるくらいです。

 このように、伝統社会から学ぶことはたくさんあります。『昨日までの世界』をご一読いただき、伝統的社会について魅力を感じていただけたら、大変に嬉しく思います。ご清聴いただき、ありがとうございました。

・全文書き起こし(2/2)はこちらから
http://news.nicovideo.jp/watch/nw535328

◇関連サイト
・日本科学未来館 (Miraikan)
http://www.miraikan.jst.go.jp/
・つながりプロジェクト2013 基調講演 「ジャレド・ダイアモンドの地球~現代の高齢化社会に生きる私たちが、過去の人間社会から未来へとつなげられること」 | 日本科学未来館 (Miraikan)
http://www.miraikan.jst.go.jp/event/130123107584.html
・昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来
http://ichiba.nicovideo.jp/item/az4532168600
・昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来
http://ichiba.nicovideo.jp/item/az4532168619
(中西洋介)

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