教育を受ける心 心理学編

教育を受ける心 心理学編

今回は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

教育を受ける心 心理学編

40も少し過ぎた頃だった。私の体は徐々に改善され、少しずつでもお酒を飲めるようになった。 だから私にとっては「スナック」、つまり女性がいてお酒を飲むところはとても楽しく、良くスナックに行った。

そんなある日、どなたかが隣の人を紹介してくれた。その人が後に私の人生に変化を与えたスポーツの教師だった。「今更、そんなことをしても・・・」と躊躇する私に先生は「そんなことはありませんよ。新しいことが拓かれますよ」といって励ましていただいたので、数日後に私は先生の教室のドアーを叩くことになる。

先生に教えていただいて、ある程度の腕前になると、私は他流試合をする。もちろんコテンパンにやられるのだが、みんなが「武田さん、そんなやり方じゃダメですよ。こうするのです」と教えてくれる。 その時は「ありがとうございます」と言って教えていただく。

次の日に先生のところで練習をするときに、「先生、みんながこんな風に言うのですが」と言うと、その寡黙な先生は「こうしてください」と全く正反対のことを教えてもらう。

しばらくして身の回りを見渡してみると、確かに先生の教室はそれほど教えを乞う人の数も多くないし、評判も悪い。「あの先生は自分の体が素晴らしいから、武田さんのような貧弱な体の人が先生の言うとおりにしてもダメですよ」と言われる。

腕前も上がらない。みんなは先生が間違っているという。「先生は本当に自分がうまくなるように指導してくれているのか?」と私の心に悪魔が巣くったのはその頃である。

でも、私は踏みとどまった。一度、師と仰いだ先生はどんなに自分が納得しなくても、その通りにやってみるものだ。それが師弟の関係だと私は何回も自分を言い聞かせ、「武田さん、ダメになってしまいますよ」という悪魔のささやきをほほえみで返して頑張った。

今、私は先生のおっしゃったとおりに人生が広がり、小さな大会ではこの年でも優勝することもある。スポーツを楽しむことができるようになった。すでに先生は他界されたが、感謝の気持ちは尽きない。

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「教育を受ける」というのは一つの特徴がある。それは「将来、自分が身につけた後に「正しい」と思うことは、未熟な自分には「間違っている」と感じる」という原理原則があるからだ。

人は「今、自分の頭の中にあることから判断して正しいと思うことを正しいと思う」という奇妙な性質がある。「正しい」というのは絶対的な概念だから「今、自分の頭の中にあることから判断する」というのとは基本的に矛盾する。

学生や若い科学者を教えていると、「意志が強い」のは良いが「我を張る」人は成長しない。 自分の意見を強硬に主張しても、指導者の言うことをそのまま受け入れる覚悟がない科学者は立派になれない。

自分が未熟な時は、先生の言うことが間違って聞こえるはずだからである。「人は今、自分の頭の中にあることから判断する」のだから、自分と先生の頭の中にある情報が違えば、正しいか間違っているかの判断は違うのが当然である。

つまり、「先生が正しいと思うことを、自分が正しいと思うのだったら、習う必要はない」ということだ。別の言葉で言えば「納得できない先生を尊敬する」ことがポイントになる。自分が納得できるようなことを先生が言うなら、それはすでに自分がわかっている事なので、先生に教えてもらわなくても良い。

このことを私がわかっていたのは40才を過ぎていたこと、苦しい研究を経験していることだった。高校生にはわからない。だから高校生に回りの人が言うのは「先生を尊敬しろ」というだけだ。「先生の言うことはわからない」と高校生が悩んでいたら、「そうか、それは良いことだ。 わかろうとするな。やがてわかる」と言うのが正しい。

執筆: この記事は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

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