総選挙の後で 捜査権力と報道の距離について
今回は高田昌幸さんのブログ『ニュースの現場で考えること』からご寄稿いただきました。
※この記事は、2012年12月24日に書かれたものです。
総選挙の後で 捜査権力と報道の距離について
このブログの前回の(まともな)記事は夏だった。この間、総選挙も行われ、政権交代まで起きてしまい、きょうはもうクリスマス・イブ。あと少しで今年も終わる。
少しだけ読み残していた「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)*1を選挙後、最後まで目を通していた。筆者は村山治さん。朝日新聞編集委員で司法担当、とくに東京地検担当が相当に長い。この本は、民主党の元代表で現在は「日本未来の党」に移った小沢一郎氏、それと対峙してきた東京地検特捜部の話が書かれている。
*1:「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争 [単行本]」 村山 治(著) 『amazon』
http://www.amazon.co.jp/小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争/dp/4022510072
記者歴の先輩である筆者には非常に失礼だが、それを承知で言わせていただくと、読み終えて暗鬱な気持ちになった。なぜなら「政権交代が確実視された総選挙を前にして、なぜ最大野党の首脳を検察は狙ったのか」という、誰しもが抱きそうな疑問に明確に答えてくれていないからだ。それどころか、かつてのゼネコン汚職や自民党の実力者だった故・金丸信氏の事件を引き合いに出しながら、「小沢が検察のターゲットになるのは、歴史的必然だったのである」(P181)という帰結を読まされると、「?」をいくつも並べたくなってしまう。「歴史的必然」で捜査が行われるなどということが、あっていいはずはない。
巨大メディアの検察担当の記者という立場は、単なる傍観者・評論家とは異なる。閉じられた記者クラブ制度の中でも、とりわけ閉鎖性の強い司法記者クラブの中にあって、村山氏は(種々の労苦があるだろうとはいえ)検察の「捜査情報」に接し、その「捜査の途中経過報道」を繰り返し、社会に大きく広めてきたはずだ。もちろん、取材・報道の過程では、検察との利害対立も生じよう。それは当たり前のことだ。
しかしながら、例えば、2009年2月、小沢氏をめぐる事件で東京地検特捜部が「不起訴」の結論を出した際、村山氏は朝日新聞に署名入りでこんな記事*2を書いている。
*2:「「小沢疑惑を広めたから特捜部の捜査は価値がある」のか?」 2010年02月06日 『ニュースの現場で考えること』
http://newsnews.exblog.jp/13669531/
<捜査は(不起訴に終わったけれども)、小沢氏側に巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた。その価値は正当に評価されるべきだろう。>
( )内は筆者が挿入。以下同。
そうした数多の「捜査の途中経過報道」はメディアの間で、社会の中で、時を置かずして乱反射し、政治や社会に跳ね返って大きな影響を与えたはずである。
村山氏自身、本書の中でこうも書いている。
「読売新聞の報道を受ける形で、市民団体が政治資金規正法違反で、(小沢氏の)経理担当だった石川や会計担当の大久保らを東京地検に告発する。さらにその数日後には、水谷建設側が小沢側に1億円を提供したと供述したことを産経新聞などが一斉に報道した。(東京地検特捜部が)極秘に進めてきた捜査の焦点が次々と報道されたことで、特捜部の捜査は待ったなしとなった」(P20~21)
こうした捜査(と報道の)結果、いわゆる小沢氏をめぐる事件がどういう結末を迎えたかは、ここでは書かない。詳しい論考はネット上にも溢れている*3。
*3:「陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応」 2012年11月14日 『郷原信郎が斬る』
http://nobuogohara.wordpress.com/2012/11/14/陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマ/
それにしても、大メディアの検察(警察も)担当記者のこの種の報道に接する度、記者と権力とのこの距離の近さは、いったい何なのか、と思う。まだこんな、1990年代以前の発想から脱していないのか、と思う。
日本には「推定無罪」の大原則がある。報道においても、不必要な「犯人視」報道は、現に慎むべきだと(少なくとも私は)考えるし、(一部の)先輩たちからはそう教えられてきた。
むろん、権力悪はきちんと取材し、報道せねばならない。野党とはいえ、政治家は「権力監視」の対象となりうるから、その点で小沢氏の疑惑を報道することが必須のケースもあろう。しかし、それは「アタマからシッポまで報道する側の責任において」ではないか。「捜査権力の力を借りずに、完全に独自の調査報道でやれ」である。捜査権力と二人三脚になって、なにがしかの勢力をターゲットにしていく行為は、鳥の目になって空から眺めれば、権力の片棒をかついでいるだけであって、「独自の調査報道」などという代物ではあるまい。
小沢氏をめぐる一連の報道に関連して言えば、読売新聞社会部の担当デスクの発言にも大きな違和感を覚えたことがある。2010年2月、東京で開かれた報道関係者の小さな集まりでのことだ。
デスク氏は、政治資金疑惑報道の経緯を話していた。もうだいぶん記憶は薄れたが、私にすれば、「これは独自の調査報道です」と説明された記事の組み立ては、相当部分が検察サイドからの端緒や捜査情報としか思えなかった。「独自」の部分があるとすれば、検察が捜査で辿ったのと同じ道を後ろから(独自に)歩いたにしか過ぎない。
あれだけ報道された「小沢資金疑惑」は、検察捜査の終焉とともに、いつの間にかフェイドアウトした。調査報道が、本当に捜査権力から独立して行われているのであれば、捜査が進もうが進むまいが、それは報道記者と報道会社の責任において、きちんと進めなければならないのだと思うし、その取材力と胆力こそが必要のだと思う。要は、あらゆる権力との間で、常に一定の・適切な距離を保つことができるかどうか、なのだ。そうでなければ、「調査報道」「権力監視」の名の下で行われている報道が、後年になって、歴史家から「あの報道は権力機構のお先棒を担いでいただけでしたね」ということになりかねない。
むろん、その場合の取材・報道は、評論ではないから、技術力が要る。パッションも要る。すべては、小さな事実の積み重ね*4、である。
*4:「「事実を積み重ねる」ということ」 2012年02月25日 『ニュースの現場で考えること』
http://newsnews.exblog.jp/17543177/
執筆: この記事は高田昌幸さんのブログ『ニュースの現場で考えること』からご寄稿いただきました。
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