「007 スカイフォール」の音楽が何故素晴らしいのか

「007 スカイフォール」の音楽が何故素晴らしいのか

今回は岩崎 太整さんのブログ『岩崎 太整のブログ』からご寄稿いただきました。

「007 スカイフォール」の音楽が何故素晴らしいのか

※このテキストは現在公開中の作品のネタバレを少々含む(配慮はしてあるので、鑑賞前でも大丈夫だとは思いますが)ので未見の方は遠慮して下さい。

「007 スカイフォール」を観た。

ちょっとこれを書いている今も整理しがたい程の衝撃を受けてしまった。

観ている途中あまりの凄まじさに話に入っていけなくなり、完全に呆けてしまった。
アクション映画というジャンルにおいて、これはもう、一つのゴールに到達したと言い切ってしまって良いと思う。
それほど圧倒的な作品だった。

本作は、ともすると一度観ただけでは音楽の凄まじさが全く伝わらないかも知れない。
一度観て印象に残るのはモンティ・ノーマンが作曲した「007のテーマ」位だろう。

しかし、それで良い。
それこそが最も脅威かつ映画音楽の新たな地平を指し示している。

この映画はDAWによる打ち込みの音楽とフルオーケストラが混在するという映画音楽の中でも流行りのスタイルを取っている。この両方を本作の音楽をつとめるトーマス・ニューマンが全て自作しているというわけではないだろうが(そんな事されていたら、もう立ち上がれない。)、やはり全ての統括をしているはずだ。
トーマス・ニューマンといえば映画音楽、ひいては作曲家として世界を代表する作家であり、「ショーシャンクの空に」、「アメリカンビューティー」、「ファインディングニモ」、「マーガレットサッチャー 鉄の女の涙」など、その代表作は枚挙に遑がない。いわゆる人間ドラマを見せる映画のスコアを書く人物として広く知られている。

だが、この作品は全く異質だ。

アクション映画における劇伴の重要さというのは個々を含んだ、場面全体の感情の差し引きだと言える。特にこの手のエンターテインメント作品においては、俯瞰的視点、つまり今登場人物がどの様な状況下に置かれ、それがどれほどの劇的感情で進んでいるかを決定する様な音楽が有効になる。

主人公・ボンドが立っている。
その背後には銃を持った敵が差し迫っている。

この様なシーンに音楽を付ける時、どういう音楽を付けるのが最も適切であるか。
仮にその敵が今正にボンドの背後1メートルに迫っている時、音楽は矢継ぎ早に鳴り、激しくなっていくだろう。
しかし、これが100m先だったとしたら、音楽はまるで心臓の音の様に低く、次に迫る展開を予期させる様な重厚なサウンドになる。
そのような「状況」に表出する(観客を含めた)「場」の感情に音楽を当てていくのがアクション映画の劇伴の常套句だ。

20世紀初頭~中期に活躍した作曲家スコット・ブラッドリーはMGMの代表作(奇しくも本作もMGM制作である。)「トムとジェリー」において、2人の主人公全ての動きを見ながらオーケストレーションを施したと言われている。従って録音も絵合わせ。オーケストラの全員に映像を見せ、一挙手一投足に音楽を合わせた。これはアクション映画として最も高度かつ困難な作曲、録音の部類と言える。現代の映画音楽はこういった手法を取る事はあまり無い。基本的には作曲した数ある楽曲を先に提出し、それを画面に当てはめていくのが一般的になっている。
この事実を知った上で、本作を観ると如何にこの映画の劇伴が凄まじい方法で作られているかを思い知る事になる。

端的に本作の劇伴を説明すると、この映画は全ての事象に音楽がリンクしていると言える。
登場人物の感情、状況の緊迫感、カットの移り変わり、小道具、大道具の動きに至るまで。細かいところでは主人公が銃を構えた瞬間にそれまで鳴っていた音楽に新たな楽器の音色が加わり、音楽のステージが一つ上がる。

これを総尺142分58秒、全てにおいて行っているのだ。

本作はほとんどのシーンで音楽が流れている。逆に流れていないシーンでは意図的に音楽を排している事が見て取れる。つまりそのシーンにおいて「無音」が最も有効な音楽になる。これは観なければ納得のいかない意見かも知れないが、一度観ると誰しも頷くと思う。
特に冒頭のシークエンスにおける劇伴の素晴らしさは筆舌に難い。打ち込みとオーケストレーションが過不足無く交差し、場面展開に全てリンクし、あれだけの大活劇を最も魅力的に魅せている。そして登場するいくつもの楽曲がシームレスに繋がる。bpmや調性、音色の差異も綿密に計算されている為、観ている側には全く違和感を持たせない。果たして、こんな作曲、編曲、録音が可能なのだろうか。
そして、これだけ複雑な音楽的思考を張り巡らせながら、ここぞという時に「007のテーマ」を違和感無く流せる天才的な所業。正直、アクション映画の劇伴として一分の隙も無い。

言い換えれば、この映画における音楽は142分58秒という長い長い1曲とも評せるのだ。

冒頭に述べた「一度観て印象に残るのはモンティ・ノーマンが作曲した「007のテーマ」位だろう」という一文は決してこの映画の劇伴を卑下するフレーズではない。むしろ最大限の賛辞なのだ。この文を読む前に本作を観た方々は、この142分の間に音楽が一体何曲流れたか分かるだろうか。あれだけ大量の音楽が流れ続けながら、観ている側に全く食傷感を抱かせず、むしろ、音楽によって無意識的に映画のテンポを操作されている事に気付いているだろうか。印象に残らないと感じるのは、あくまで楽曲的な部分、音楽単体の話にしか過ぎないのだ。

また、音楽には「小節感」というものがある。現代の音楽は基本的には偶数に支配されており、それを逸脱するものは変拍子などと呼ばれる。(これはかなり乱暴な物言いなので、この点については詳しい文献にあたって貰う方が良い。ここでは説明は割愛する。)つまり、音楽には「据わりの良い」絶対時間が存在する。そして、それからずれると感覚的違和感を生む。
では本作の劇伴はどうやって感覚的違和感を生まずに、これだけ偶発的に起こる映画的事象に音楽を合わせる事が出来るのだろうか。

これは少々専門的かつ僕の個人的な方法論だが、仮にあるシーンで背中越しの登場人物が5秒たった後に振り返ったとするなら、僕はこれをbpm60(1分間に60回カウントされる音楽的テンポ。つまり1秒1拍。)と捉え、4/4拍子の1小節+1拍目、つまり2小節目の頭に音を足す。すると音楽的にも場面的にも自然で満ち足りたシーンが出来上がる。
あくまでこれは例であるため、これだけで万事が満ち足りるという事ではないが、トーマス・ニューマンはこういった方法を映画全編で行っているのだ。しかも大人数のオーケストレーションを施して。家でチマチマ作っている打ち込み作家とは訳が違う。
これが如何に途方もない事であるか、少しでも想像して貰う事が出来れば嬉しい。

これまで述懐した内容から推察するに、本作の劇伴が映画の編集前に全て作られたという事は考えづらい。これだけ映像と綿密な関わりを持っている楽曲群が全て偶発的に生まれる事はまずあり得ないだろう。それほど音楽が映像の意図を汲んでいるのだ。他の可能性があるとすれば監督のサム・メンデスが全ての楽曲に合わせて逐一編集していったという事くらいだが、これもまた現実味を帯びない。
ある程度の下準備とモチーフは存在するにせよ、ピクチャーロック(映画の編集が固まる意。)後にかなりの労力を費やして、映像に音楽を付けていったのだろう。膨大な数のトライアンドエラーを繰り返しながら。その予算と時間と能力が彼らにはある。
この映画の音楽がいつからどうやって何人の協力を得て作られて(現在はチーム作編曲が主流でもあるため)いったか、僕には知る由も無いが、アジアの小国の端っぱ作家をぶちのめすには十分過ぎる破壊力だった。

最後になるが、本作のサウンドトラックは買う必要が無い。正確には、買っても良いがその魅力は劇場で映像と共に体感しない限り、全ては伝わらない。これだけは自信を持って言える。
これが演出的音楽というものだ。

今まで僕のやってきた事など、まだまだ足元にも及ばない。
これから物凄い頑張ったところで果たして追いつけるのかどうか。

いやー、世界は広い。広過ぎるくらいに広い。
返す返すも本作はショックだったが、この事実を素直に引き受けて、どうにか更に新たな視点を生み出さなくてはならない。

執筆: この記事は岩崎 太整さんのブログ『岩崎 太整のブログ』からご寄稿いただきました。

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