『千日の瑠璃』397日目——私はベーコンだ。(丸山健二小説連載)

 

私はベーコンだ。

まほろ町の代替りしたばかりの魚屋が珍しさのあまり仕入れ、世一の母親が懐かしさのあまり買い求めた、鯨のベーコンだ。私はフライパンで両面をさっと焙られてから、飯の上にべったりと貼りつけられた。そしてその弁当が職場で開かれたとき、世一の父の同僚が集まってきて私を覗きこんだ。「今では賛沢品だ」と世一の父は言い、「味見くらいならいいぞ」と言った。かれらは私をちぎって分け、口にし、思い思いの感想を述べた。

「うん、思い出したよ」と誰かが言い、「むかしよりも上品な味になっているぞ」と誰かが言い、「牛肉には負けるよな」と誰かが言った。そうやってかれらはひとしきり、物騒がしく、物資が底をつき、安閑とはしていられなかった時代に浸り切っていた。やがてかれらは、自分たちがあれから何を失ってしまったのかあらためて悟り、それをあっさり認めるのが辛くて、私の味を知らない世代の連中をさも憎々しげに臨みつけると、「飢えを知らない奴らには何もわからんよ」などと言っておだをあげた。すると、今年大学を出たばかりの職員が、決して皮肉ではなしに言った。「倖せな時代を生きたんですね」と。

夜になって、年配の職員は盛り場へと繰り出した。かれらは幸福に違いない時代を確かめたくて大酒を呑み、大いに管を巻き、体にはむしろ害にしかならないような食べ物といっしょに私を、月が映っているどぶへ吐いた。
(11・1・水)

丸山健二×ガジェット通信

  1. HOME
  2. エンタメ
  3. 『千日の瑠璃』397日目——私はベーコンだ。(丸山健二小説連載)
  • ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
  • 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。