『臆病者のための裁判入門』事件の発端 えっ、ぜんぶウソだったの!?
今回は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。
『臆病者のための裁判入門』事件の発端 えっ、ぜんぶウソだったの!?
最新刊『臆病者のための裁判入門』(Amazon「在庫切れ」から「発送可」に復帰しました)から、事件の発端部分を掲載します。
臆病者のための裁判入門 (文春新書) 橘 玲 (著) 『Amazon』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166608835
ここから、2年半におよぶ民事裁判の迷宮めぐりが始まりました。
***********************************************************************
トムから最初に相談を受けたときは、こんな面倒な話になるとはまったく思わなかった。
トーマス(トム)・ニーソンはメルボルン生まれの28歳で、日本に来て5年になる。カナダ人の知人に紹介されて知り合ったのだが、英会話学校の教師をしながら通信教育でMBAを取得した努力家で、当時は大手コンサルタント会社の契約スタッフだった(現在は外資系IT企業の日本法人で働いている)。
相談の内容は、ほんとうにささいなものだった。
その年(2009年)の2月、トムは友人のバイクを運転中に事故に遭った。といっても乗用車と接触しただけで、革のジャケットやヘルメット、カバンの中の電子機器などが破損したが大した怪我はなかった。
事故による損害(物損)は15万円ほどで、それを保険金請求したいのだが、損害保険会社の担当者が相手にしてくれないのだという。このままでは埒があかないので、自分の代わりに損保会社と交渉してくれないか、というのが相談の内容だ。私がその話を聞いたのが10月だから、事故からすでに8カ月経っていた。
トムは日常生活に差し支えない程度の日本語を話すが、約款が読めるわけでもなければ、損害保険の専門用語を知っているわけでもない。ひととおり事情は聞いたものの、私はたんに損保会社の説明を理解できないだけだと考えた(誰だってそう思うだろう)。だったら担当者から保険金を請求できない理由を聞いて、それを本人にわからせればいいだけだ。
ここから、相手の損害保険会社をA損保と表記する。特定の損保を批判するのが本書の目的ではなく、事件の内容を一部簡略化しているためでもある。個人名もすべて仮名で、担当者は栗本としよう。
栗本は、A損保の保険金処理窓口となる東京郊外のサービスセンターに勤務する若い男性社員で、私が電話すると、トムの件にはほんとうに困っているのだ、とため息混じりにいった。彼の説明によれば、事故は明らかに相手のドライバーの責任で、先方の損保会社(T海上)とも20対80の過失割合で合意しているのだが、ドライバーが頑として非を認めないのだという。「保険金の支払い手続きが滞っているのはT海上がドライバーを説得できないからで、このままだと訴訟が必要になるかもしれない。現在、T海上に対してなんとか解決するよう強く申し入れているところだ」という説明だった。
もちろん私は、栗本の説明を100パーセント信じた。私は車もオートバイも所有しておらず、損害保険を請求した経験もないが、交通事故が過失割合で揉めるケースが多いことくらいは知っており、彼の言葉を疑う理由などどこにもなかった(「そんなこともあるんだろうな。大変だな」と思った)。
栗本の話では、現在、T海上がこの件を社内で協議していて、結論が出るのは今週いっぱいかかるとのことだった。そこで、「できるかぎりトムの希望に沿って手続きしてあげてください」と頼んで電話を切った。
その週の金曜夕方になっても栗本から連絡がなかったので、どうなったのかと思ってこちらから電話してみた。栗本は報告が遅れたことを詫びると、「いまちょうどT海上の担当者が上司と話し合っていて、もうすこし時間がかかりそうでなんです」といった。いずれにせよ、週明けまで待つしかないとのことだった。当然のことながら、私はこの言葉もそのまま信じた。
翌週の月曜は振替休日で、火曜日の夕方になっても栗本から連絡はなかった。仕方がないのでこちらからまた電話をすると、体調を崩して休んでいるといわれた。
ここに至って、生来鈍感な私も、なにかがおかしいと思いはじめた。そこで、T海上に事情を聞いてみることにした。
T海上の担当者ははきはきとした若い女性で、トムの名前を告げるとすぐに思い出した。彼女の説明は、驚天動地としかいいようのないものだった。
T海上の記録によれば、トムの件は事故直後の2月に自損自弁で処理されていて、ファイルは解決済みとして倉庫にしまわれていた。乗用車のドライバーは車両保険に加入しており、修理代はすでにT海上が全額保険で支払っていて、「過失割合で揉めている」などということもなかった。この件が社内で問題になっているとか、上司と対応を協議している、という事実もない。A損保の栗本からは2月以来なんの連絡もなく、いったいなんの話か困惑するばかりだ……。
栗本の説明は、すべて嘘だったのだ。
(これ以降の経緯は本でお読みください)
臆病者のための裁判入門 (文春新書) 橘 玲 (著) 『Amazon』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166608835
執筆: この記事は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。
ガジェット通信はデジタルガジェット情報・ライフスタイル提案等を提供するウェブ媒体です。シリアスさを排除し、ジョークを交えながら肩の力を抜いて楽しんでいただけるやわらかニュースサイトを目指しています。 こちらのアカウントから記事の寄稿依頼をさせていただいております。
TwitterID: getnews_kiko
- ガジェット通信編集部への情報提供はこちら
- 記事内の筆者見解は明示のない限りガジェット通信を代表するものではありません。