『千日の瑠璃』376日目——私は蚊だ。(丸山健二小説連載)
私は蚊だ。
この季節までしぶとく生き延びたばかりではなく、今も尚貪欲に血を求めて彷徨う、まだら模様の蚊だ。楽天家で、生きることにあまり熱心でない牡たちは、花の蜜や樹液でも吸って放縦に流れていればいいのだが、しかし私たち牝はそうはゆかない。卵を発育させるには多量の蛋白質を摂取しなくてはならず、それには吸血の一手しかないのだ。あまつさえ残された時間は短い。
私は焦る。目下の緊要事は、肌をあらわにしてあまり動かない人間を見つけることだ。男よりも女がよく、その女も若ければ若いほどいい。理想をいえば、ぐっすりと眠っている赤ん坊だ。だが、今はそんな贅沢をいってる場合ではない。私はトンボや鳥の眼を盗んでふらふらと飛びつづけ、めまいを覚える頃になってようやく人間が放っているに違いない魅力的な二酸化炭素を捉える。
痛ましい色のシャツを着て、明る過ぎる足どりで歩く少年の首にとまった私は、垢で汚れた皮膚を切り裂き、そこへすり減って弱くなった吸血管を慎重に刺しこみ、血液を凝固させないための唾液を注入してから、いよいよ吸い始める。何て酷い味だ。私が知っているなかでは最悪の血だ。吸えば吸うほど頭がくらくらし、吸われているのはこっちかもしれないと思った途端、長の患いから生じた恨み辛みの数々がどっと私のなかへ入りこみ、体が急に重く感じられ、地面へ向って落下して行く。
(10・11・水)
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