『千日の瑠璃』372日目——私は火だ。(丸山健二小説連載)

 

私は火だ。

不幸にして生後日ならずしてあっさり死んでしまった嬰児が、最期の瞬間に見た、火だ。私は特に強烈な光彩を放ったわけではなく、うたかた湖の岸で物乞いと脳のどこかが麻痺している少年に挟まれた、ちっぽけな焚き火にすぎなかった。しかし、プラスチックの保育器を通し、病院の二重の窓ガラスを通し、秋の大気を通し、生者の胸の底に溜る浮き世の澱を通してはるばるここまで届いた、余りにも幼い、縋るような眼ざしをはっきり感知したとき、私は周辺の森や林で造られた酸素を精魂こめてめいっぱい取りこみ、大いに燃え、炎の高さを一挙に倍にし、どっと火の粉を舞い上がらせた。

けれども力及はず、その子の衰弱をくいとめるどころか、最も近くに張り出している松の枝ひとつ焦がすことができなかった。それでも尚、その子の汚れを知らぬつぶらな瞳は、たしかに私を捉えたのだ。彼が見たのは親の顔ではなく、最善の手を尽くした医師や看護婦の白衣でもなく、この私だった。私を見た彼は、口元に不思議な笑みを、この世での僅かな時間を過すために精根を使い果たした赤ん坊のものとはとても思えない、深くて安らかな笑みを浮かべたまま、静かに息を引き取った。まだ若い父親は、死者の眼に焼き付いた私に気がつくと、わが子の一生をカゲロウのそれと比べることをやめ、青ざめたその顔をうたかた湖の方へと向けるのだった。
(10・7・土)

丸山健二×ガジェット通信

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