『千日の瑠璃』363日目——私は大胸筋だ。(丸山健二小説連載)
私は大胸筋だ。
脚に代る腕と共にいつしか鍛えあげられた、車椅子の青年の隆々たる大胸筋だ。私は今、彼の体と彼の生き方をも構成するほかの筋肉といっしょに、どろどろの汗にまみれながら、土用波のように大きくうねっている。そして私は、常に付き纏って離れない厭世の気配には眼もくれず、かつてこの青年が自分の足で移動できないとわかったときに死神と交した黙示の契約を、一方的に破棄する。
上り坂ばかりのおよそ十キロの道のりを、青年はきょうもまた完走したのだ。かかった負荷抵抗が一時的に私の力を弱めているが、しかし、大小さまざまな血管やリンパ管があしたの超回復をめざして、清らかで栄養満点の液体を駆け巡らせている。私の内奥に秘められた魂は、抜錨した巨船のようにどっしりと構え、将来への危惧の念を悉く追い払っている。生きつづけることの妥当性を問うているのは、少なくともこの私ではなく、脳のあたりに巣くうほかの誰かだ。
昨夜の嵐の余弊があちこちに残っている湖畔に降り注ぐ陽光、その大半をこの私が一手に引き受けている。すべての影を引き寄せるようにして歩く、あのもどかしい少年が、こっちへやってくる。彼は震えのとまらない掌で私をぴしゃっと叩き、黙って通り過ぎる。青年の吊り眼が更に吊り上がり、唇は逆に下がり、への字になった口からこんな言葉が飛び出す。「おまえといっしょにするな!」
(9・28・木)
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