『千日の瑠璃』360日目——私は鰈だ。(丸山健二小説連載)

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私は鰈だ。

夜遅く帰宅した世一の姉が、煮返すために冷蔵庫から取り出した、冷えた鰈だ。私は甘辛い汁ごと小さな鍋に移され、山椒の実をまぶされてから、焜炉に掛けられる。しかし、なぜかいつまでもガスに点火されない。疲れのせいで居眠りをしているというわけではない。彼女の眼はたしかに私の方へ真っすぐ向けられているのだが、私のことを見ていないのだ。正は早くも清涼の秋に包まれている。

彼女の左の手は鍋の取っ手をつかんだままで、右の手は鍋の蓋を持ったままだ。彼女とはすでに十年も付き合ってきたというアルミの鍋が、そっと私に教えてくれる。男のせいだ、と。さっきまでいっしょだった男のせいで、体が弛緩の極に達しているのだ、と。まほろ町と同様さほど複雑にできていない彼女の頭のなかは、疑惑でいっぱいなのだ、と。

そして彼女は、言う相手に事欠いてこの私に質問を浴びせてくる。あの人は結婚によって借金を棒引きにしてしまうつもりなのだろうか、とこんな調子だ。ついで彼女は、こう呟く。もし結婚してもらえるのなら、貸した金がそっくり貸し倒れになっても惜しくない、と。そう言うときの彼女の顔はどこか魚に似ている。それも、ほかの魚を丸呑みにして生きなくてはならない種類の魚に。私は彼女に言ってやる。鍋に訊け、と。ガスに火が点けられる。鍋は「わからん、わからん」と答えるばかりで、遂に私を焦げつかせてしまう。
(9・25・月)

丸山健二×ガジェット通信

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