『千日の瑠璃』356日目——私は藍だ。(丸山健二小説連載)
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私は藍だ。
染色の仕事に真撃に取り組む女によって刈られ、細かく刻まれ、乾燥されて、申し分のないすくもとなった、藍だ。すっかり廃れてしまった今、私が何に使用される植物かを知っている者は少ない。年寄りでもすぐには思い出せないほどだ。淡々と生きながら、花弁の栽培の片手間に私を復活させた老婆は、自分で織った布を何枚か私の色に染めた。
彼女はその布を使って、いくら呼んでもうんともすんとも言わない寝たきりの夫の掛け布団を作った。私は、ひたすら老霊の身を横たえてこの世をやり過そうとする男の七十数年をふたたび瑞々しいものに変え、干からびかけている魂をも青々と染めた。彼を苦しめる哨息をとめることはできなくても、彼の夢をかき乱す黒雲を排除することくらいは、私にもできた。私が包みこんでいるのは、生来敢為の気性に富む、しかし決して出しゃばらず、慎しい人柄の、よくぞ生きた、男のなかの男だった。
そんな男の連れ合いとして似つかわしい老婆は、先日、家の前を通りかかった少年を呼びとめた。彼女は少年の体の寸法を正確に測り、饅頭をひとつ与えて帰した。そしてきょう、彼女は世一という名のその少年をもう一度呼びとめた。汗や土埃、差別や嫌悪、憂いや憤りにまみれてよれよれになったシャツを手に、私が染めた真新しい長袖のシャツを着て丘の道を登って行く世一は、青空に溶けた。
(9・21・木)
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