『千日の瑠璃』314日目——私は刷毛だ。(丸山健二小説連載)

 

私は刷毛だ。

もう棄てるしかないほど傷んでしまった、今時珍しい木製のボートにペンキを塗りつけてゆく、刷毛だ。私を手にして、単調な、しかし面白くてやめられない仕事に没頭している元大学教授は、このボートを二週間前に偶然発見した。見つけたときは溺死体に思えた、と彼は妻に言った。それから彼は誰にも聞えない声で、こう言った。「このわたしが浮かんでいるのかと思ったよ」

彼はボー卜を死なせたくないと思った。それを助けることは自分を救うことに通じるかもしれないと考えた。生き返らせることに決めた。彼はクルマと牽引ロープを使って死にかけていたボー卜を岸へ引き揚げ、十日のあいだ乾燥させ、三日かけて修理をした。そしてきょう、最後の仕上げとして、物置の外壁に使った、青とも黒ともつかない、どちらかといえば闇に近い色のペンキを塗り始めた。

彼は鼻歌をやめて、私に訊いた。「この充実感は一体何だ?」と。私は即座に答えた。「結果がすぐにわかる仕事だからさ」と言い、「塗り終えたらどうするつもりだ?」と訊いた。彼は老熟の域に達した者のような口ぶりで、「また湖へ放ってやるだけだ」と言い、何を考えたのか、私をいきなり自分の顔にこすりつけた。すると、この世に合せて体が揺れ動いてしまうのかもしれない少年は、くすくすと笑い、それから幼児の片言に似た言い方で、「そのボートに乗って沖へ出て行けば」と言った。
(8・10・木)

丸山健二×ガジェット通信

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