『千日の瑠璃』300日目——私は羊だ。(丸山健二小説連載)
私は羊だ。
天恵に浴する働き者の手によってトラックから降ろされたばかりの、顔のところだけ黒い羊だ。牧場の広さ、若草の甘い香り、あり余る光、山を昇ってくる気持ちのいい風、大自然の壮美。私はしばし戸惑い、不安すら覚えて、その場に立ち尽くしている。「さあ、仲間のところへ行け」と、こせこせして気ぜわしい農夫は言って帰って行く。
たしかに太陽の真下では、私の仲間がひとかたまりの群れを作っている。かれらは怠りなく目配りをし、こっちの様子を窺っている。私もかれらに倣う。だが、どう考えても私たちは解き放たれており、どう見てもいたるところに自由がふんだんにころがっている。私たちを監視する人間の姿も、人間の手先である犬の姿もまったく見当たらない。狭くて汚ない畜舎で夢に描いた光景が、今、間違いなくここにあるのだ。それを確認するために、私はまず足元の青草を食み、ついでやにわに駆け出してみる。やはり思った通りだ。私は完全に解き放たれている。
私は高きをめざして走る。しかし、なぜか仲間はついてこない。足搔いても無駄だ、とかれらは目顔で知らせている。それでも私は走る。まもなく私は、鋭い棘を植えこんだ針金に行手を遮られる。針金の向うには、風に揺れるマツムシ草に似た少年が立っている。彼は「そこまでだ」と私に言う。ついで、こう言う。「でも、本当は安心しただろうが」
(7・27・木)
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