『千日の瑠璃』290日目——私はテントだ。(丸山健二小説連載)

 

私はテントだ。

コウモリ傘のようにしてあっという間に広げることができる、向日葵の色をした一人用のテントだ。私をマウンテン・バイクに積んでまほろ町へ持ちこんだしけた面の年配者、彼はなぜかうたかた湖畔を選ばなかった。そこの見るからに涼しげな松林のなかのキャンプ場には、きちんとした炊事場も清潔な便所も備わっていたのに、彼はただ深いというだけのうつせみ山へ分け入り、枯れかけた栂の巨木を見つけると、その根元に私を張った。

そして彼は、心友のようにしてマウンテン・バイクに話しかけながら、山の冷気と恐怖と孤独が身に滲みる一夜を過した。朝になって闇が退くと、彼は別人に生まれ変った己れを自覚し、あるいは、錯覚した。炊きたての飯に生卵をかけて食べている彼の眼の前に、陽光を浴びて瑠璃色に輝く鳥が飛んできた。そいつが私の頭にとまって青々とした声で鳴き始めると、彼は突然、この世には物思いに沈むほどのことは何もないかもしれない、というそんな思いを強くした。その途端、彼の心は膨らみ、私よりも大きく膨らんで、見はるかす大海原のような広がりをみせたのだ。

腹が満たされると、今度は自己顕示の欲望に突き上げられ、彼は私を畳んで山道を凄い勢いで下って行った。途中、托鉢から戻る禅僧たちの一団と出会い、一番後ろを歩く若い僧と眼が合った。しかし、眼をそらしたのは先方だった。僧の視線は私の方へ転じられた。
(7・17・月)

丸山健二×ガジェット通信

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