『千日の瑠璃』205日目——私はタイヤだ。(丸山健二小説連載)

 

私はタイヤだ。

街道のS字カーブを曲る際にトラックの荷台から振り落とされてしまった、最大級のタイヤだ。トラックは気づかないでそのまま走り去った。思い切って飛び出した私は土手を一気に駆け下り、坂道をごろごろころがって熟しかけた夜のなかへと分け入った。まほろ町という名の田舎町へ突入した私は、更にころがって、苛酷に過ぎる現実の壁を次々にぶち破って行く。私は、人の真性は善であるとするおめでたい老人の傍らをすり抜け、教師としての適性を些か欠いた芸術家肌の青年をなぜか感動させる。私は、田んぼで鳴き交す蛙を沈黙させ、何かにつけて役人風を吹かせ、片時も鬘を離せない男を震えあがらせる。

私は尚も速度を増してゆく。私は、白人がでっちあげた神に向って独り敬虔な祈りを捧げる女に啓示を錯覚させ、寡婦ばかりが住む安普請のアパートの扉を次々に叩いて在室か否かを確かめている漁色家の肝を冷やす。私は、浮薄な気風を撥ね飛ばし、代りに不羈独立の精神をばら撒く。私は、栄位に就くことしか頭になかった衒学的な男の半生を蹂躙し、勲章好きの教育関係者に民主主義の真義を明らかにせよと迫る。そして私は、微かなオオルリのさえずりを聞き澄まして恍然とする病人、この世に誰よりも馴染んでいるかもしれない少年を避けて通り、架設してまもない橋を娼婦よりも速く渡ろうとして失敗し、平野を貫流する大河へ通じる川へと落ちて行く。
(4・23・日)

丸山健二×ガジェット通信

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