『千日の瑠璃』203日目——私は牛だ。(丸山健二小説連載)

 

私は牛だ。

まほろ町では唯一犬や猫のようにして飼われている、ホルスタイン種の牝の牛だ。要するに飼い主は、私から肉や乳、あるいは仔といったものをまったく当てにしていなかった。ときどき闇に向って今は亡き兄弟の名を疾呼する癖がある彼は、私の眼を見るだけで心が休まると言って、赤心を披瀝した。また、彼の奥さんも私を相手に胸底を打ち明けるのだった。彼女はこう言って私に感謝した。夫が前後の見境もなくなるほど大酒を呑んで泣きわめいたりしなくなったのも、発奮して家業に励むようになったのも、儲け話を持ちかけられても動じなくなったのも、すべて私のおかげだ、と言った。子どものいないかれらは、私のためにわざわざうつせみ山の麓へ引っ越し、休閑地を借りて広々と気持ちのいい放牧場まで作ってくれたのだ。

たしかに私は幸福だった。飼い主よりも。これ以上望むべくもない日々に違いなかった。それでも私はしばしば一抹の寂しさを覚え、山へ向って啼かずにはいられない夜もあった。暗夜に乗じてあの少年が訪ねてきてくれなかったら、とても堪えられなかっただろう。少年はくるたびに乳をせがんだ。むげに断わるわけにもゆかず、私は何も出ない乳房をしゃぶらせた。私は彼が所望の愛に似て非なるものを与え、彼は私のなかにたまりにたまった退嬰を吸い取ってくれた。思いなしか、少年の体の震えが和らいだように見えたりもした。
(4・21・金)

丸山健二×ガジェット通信

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