「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い

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「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い

今回はamamakoさんのブログ『斜め上から目線』からご寄稿いただきました。

「尖閣諸島を守るために防衛力を持とう」というリアリストが一番怖い

前回の記事*1に多数アクセス・コメントいただき有り難うございます。

*1:「「防衛力を持っていれば犠牲が防げる」なんていうのも思い込みである」2012年9月19日『斜め上から目線』
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20120919/1348006047

しかし多くのコメントを読む限り、前回の記事で書いたことがきちんと理解されているとはいえない状況のようです。そこで今回の記事では、それらのコメントの代表的なものにお答えしていき、もう一度前回の記事の趣旨について説明するとともに、最後に現在の僕の主張について改めて説明します。

「防衛力」とは、「人を殺す武力」のことであり、そしてそれは自分たちにも牙をむく

「シートベルトしてれば怪我しない」という主張を仮定してシートベルト着用義務を批判してるって感じかね?

https://twitter.com/kudoh/status/248337401729130496

アコムしていても泥棒に入られるからといって、鍵や扉が必要ではない。という理屈にはならんでしょうが。

https://twitter.com/toronei_sub/status/248282004020400128

最初のパラグラフだけ読んで「これは『東日本大震災級の津波が来たら防げないから防波堤なんぞいらない』という理屈と同じだ」と思ったからそれ以降は読まなかった。出発点が間違ってれば全部だめ。

http://twitter.com/dadaemonsan/status/248305229697794049

大規模な津波に防波堤は「効果が薄いので」無意味とか言うアホの同類。

http://b.hatena.ne.jp/konstantinos/20120919#bookmark-111596818

このような勘違いを産まないために、具体例を挙げたつもりだったのですが、伝わらなかったようなので。

このコメントをした人達は「防衛力」というものをシートベルトや防波堤と同じような存在と捉えているみたいですが、これらのものと防衛力には大きく違う点が二点あります。

まず一点目は

○防衛力は「人を殺す」もの
ということです。

防波堤やシートベルトは、高波のエネルギーや事故のエネルギーを吸収することによって人々を守ります。では、防衛力は一体何によって防衛をするのか?それは、人を殺すことです。敵の兵隊に銃弾や砲弾を浴びせ、息の根を止めるものなのです。

つまり、防衛力とはそれが使われている時点で既に犠牲を生んでいるのです。ただ、その犠牲を「自国民」から「他国民」に転移させているにすぎません。犠牲を防ぐシートベルトや防波堤とは全く異なるものです。

次に二点目。

○防衛力は、時に自国民に牙をむく
防波堤やシートベルトを利用して、それが守るはずの人々を殺すことが可能か?よほど変わった手段を用いない限り不可能でしょう。しかし、防衛力の場合はそれは極めて簡単です。敵の方に向いていた銃口を180度回転させればいいだけなのですから。そして事実、中国の防衛力である人民解放軍は、銃口を180度回転させて、天安門において自国民を虐殺したのです。

「憲法9条を守ってさえいれば大丈夫」ではもちろんない。憲法9条を守って、さらに平和のために努力をしないとだめ

ましてや「軍備放棄すれば他国が攻めてくるはずがない」なんてのはまったくの妄想ですよね

http://b.hatena.ne.jp/bengal00/20120919#bookmark-111596818

この人の考えは考慮するに値しない。お花畑タイプの人間だ。

http://twitter.com/ykdrm1/status/248257466062741504

だからって平和憲法も幻想だけど。

http://twitter.com/bamo02/status/248282376348766208

「現実の想定外」を指摘してるけど「理想の想定外」にはどう対応するの?w

http://twitter.com/tetsunotsuki/status/248290448295198720

どうやらこの人達は、前回の記事を「現実主義者の示す現実は空想だけど、理想主義者の示す空想(世界平和)は現実である」というように誤読しているようです。だから「理想の想定外」という言葉が出てくるのでしょう。理想の思い通りになっていないのは、理想なら当たり前のことなのに。

リアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例*2の著者もそうですが、現実主義者たちはよく、護憲派の左派に対して「彼らは憲法9条を守っていればそれだけで幸せになると思ってる」というような批判をします。

*2: 「「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例」2012年9月18日『リアリズムと防衛を学ぶ』
http://riabou.net/archives/43

ですが、もし憲法9条を守っているだけで平和になると左派が思っているならば、一体なぜ左派は別に日本が軍隊を送ってないベトナム戦争やその他様々な紛争に対して反対の声を挙げ、難民などに支援をし*3、人権擁護の活動をしてきた*4のでしょう?

*3:ペシャワール会
http://www.jca.apc.org/beheiren/
*4:日本弁護士連合会  人権擁護活動
http://www.nichibenren.or.jp/activity/human.html

答えは、憲法9条という理想を守ろうと頑張ってきた人達こそが、その困難さを理解していたからです。理解した上で、では、憲法9条という理想をどうすれば他者・他国と共有できるか、そのためには人々が圧迫と隷従から解放され、自由に生きられることが必要であるとし、そのための努力を行なってきたのです。まさに「冷静な危機感に基づいた具体的な努力」と言えるでしょう。

それに対して現実主義者は一体どうだったか?「戦争の被害を抑えるためには防衛力は必要不可欠。そしてその上で冷静な外交を」と彼らは言います。ですが、防衛力によって被害を抑えるためには、他国の軍隊より多くの力を持っていなければなりませんから、当然防衛力によって被害を抑えようとする行為は軍拡につながります。しかし他国も同じように考えるから、他国も軍拡をすることによって自らの防衛力を大きくしようとします。これが、現実主義者の思い込む現実の当然の帰結です。ところがそれに対して現実主義者は「軍拡によって周辺に脅威をふりまくのはやめろ」と言うのです。

例:「永遠の軍拡競争に」=前原外相、中国をけん制*5

*5:「「永遠の軍拡競争に」=前原外相、中国をけん制」2011年3月6日 『許すな!憲法改悪・市民連絡会』
http://web-kenpou.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-0096.html

これのどこが一体「冷静な危機感」に基づいた「具体的な努力」なんでしょう?「自国の軍拡はきれいな軍拡だから良い。他国の軍拡は危険な軍拡だから駄目」、そう主張することのどこに「冷静さ」があるんでしょう?どこに「具体的な努力」があるんでしょう?

もし現実主義者が冷静さを持って具体的な努力をするならば、それは「どこの国も防衛力を持っていて当然だから、他国の軍拡には文句を言わない。そのかわり、他国の軍拡より大きな規模で軍拡を行うことによって、自国の防衛力を保持する」というものでしかありえないでしょう。その帰結は、果てしない軍拡競争ですが、現実主義者が思い込む現実に基づいて「冷静に具体的な努力」をするならそれしかありません。ところが、実際の現実主義者はそのようなことは言わず、ただ「自国の軍拡は良い軍拡だけど、他国の軍拡は悪い軍拡!」と騒ぎ立てれば、それで他国は軍拡を止め、自国の防衛力が維持されると思い込んでいる。僕からすれば、そちらの方が余程お花畑です。

「領土」と「人命」の交換を迫られた時、前者を取り後者を捨てるのが現実主義者

最後に、勘違いの指摘というよりはコメント全体に対する反論を。

防衛力の増強を批判するとこう反論する人がいます。「ならば君は他国に自国の領土が蹂躙され、自国民が虐殺されてもいいのか!?」と。

ですがその場合、例え防衛力を持っていても、結果は自国の防衛力により、他国の人々が殺されるのです。それは、虐殺の否定ではありません。ただ、虐殺されるのが「自国民」から「他国民」に変わっただけです。

そして更に言えば、同じようなことは他国も考えています。「防衛力を持たなければ、自国の領土が蹂躙され、自国民が虐殺される」と。だから他国も防衛力を持つ。結果両国の防衛力はどんどん増大していき、そんな中でふとした事件が偶発的に起きれば、それは他国民と自国民、両国が虐殺されることにつながります。だって、他国も虐殺されるのが「自国民」から「他国民」に変わる結果を選ぼうとするのですから。他国にとっての「他国民」は自国民です。

ここからは、机上空論ではなく、具体的な事例について考えましょう。僕がリアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例という文章を読んだ時、一番腹が立ったのは、この文章が現実主義者の立場から書かれ、フォークランド紛争や湾岸戦争といった過去の事例を紹介して持論を主張しながら、今起きていて、そして、この持論が必ず援用される、というか、その現在進行形で発生している実例のために持論を主張しているはずなのに、その実例自体に対しては一切文章内で明示していないという。点です。このブログの著者は現実主義者を名乗っているのに、一番見つめなければいけない現実には、触れようとしません。

はっきり言いましょう、リアリズムと防衛を学ぶ ≫ 「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例は、尖閣諸島・魚釣島の領土問題を念頭に置いて書かれたものでしょう?中国との領土問題について、「戦争なんて起こりっこない」と思っている人々に対し「『戦争なんて起こるわけがない』と思っていても戦争は起こりうる。だから中国との戦争も起こりうる」と言い、恐怖を煽った上で、「だから中国に対する防衛力を持ち、戦争に備えなければならない」と主張しているのです。

しかし、それによって生じるのは一体何か?フォークランド紛争と同じ、戦争、人と人との殺し合いです。尖閣諸島・魚釣島において、日本の防衛力として指名された人間が、中国の人を殺す。あるいは、その反対のことも起こりうるかもしれません。結果として、「日本固有の領土」は守られるかもしれませんが、それは人命と引換になされることです。現実主義者が言う「防衛力の行使」とは、人間同士に殺し合いをさせ、人を殺した上で、その引き換えに、「領土」を守ることなのです。

しかしそのようなシナリオに対して僕ははっきりとNOをつきつけます。もし、尖閣諸島・魚釣島において、人と人が殺し合いになる、戦争・紛争のような状態になるならば、やるべきことは「防衛力の整備・行使」ではありません。尖閣諸島・魚釣島から撤退することです。そしてその上で、話し合いにより問題の収集・解決を選ぶべきです。このような立場はおそらく現実主義者からすれば「弱腰」なのでしょう。しかしそれを選ばなければ起きる帰結が「人と人との殺し合い」なんですから、僕ははっきりと撤退を主張します。

更に言いましょう。このような僕の主張に対し「領土は時に人命より大事である」と批判する人もいるかもしれません。だったら、そういう風に声高に主張する人のみが実際に殺し合いの現場に行き、他人に殺されてくればいいじゃないですか。僕が属する日本という国家を巻き込まず、勝手に殺されてくればいい。ですが、「防衛力」を声高に主張する現実主義者は、しかし実際に戦場にいく覚悟はほとんどの人がないでしょう。現実主義者なのだから、彼らこそが、人と人が殺し合うという〈現実〉に接しなければならないのに。

少なくとも僕は、戦場になった尖閣諸島・魚釣島に行き、そこで他人と殺しあう覚悟はない臆病者です。だから僕は、「防衛力」という美辞麗句を用いながら、しかし実際は人々に殺し合いをさせようとする現実主義者たちが怖いし、そのような人々に同意することはできません。

執筆: この記事はamamakoさんのブログ『斜め上から目線』からご寄稿いただきました。

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