『千日の瑠璃』189日目——私は桜だ。(丸山健二小説連載)
私は桜だ。
知る者は限られているが、まほろ町では真っ先に咲いて美装を凝らす、池畔の桜だ。風と光が安定したきょう、私の下へ冬を無事に乗り切った錦鯉が集まってきた。そしてかれらは、私がときおり夢現に散らす花びらといっしょに、世一の叔父が様子を見ながら投げ与える固形の餌を、その艶めかしい口で吸い取った。背中一面に躍る緋鯉の彫り物をした男は、飢寒に耐え切れずに衰弱した鯉がいないかどうかを確かめ、鯉のほうでもまた飼い主のそれを確かめた。両者共にこれといった欠陥はなかった。つまり、池のなかでは多年の努力が着実に実を結んでいたし、池の外では独り身の男が血を見たりしなくてもいい静かな日々に浸っていたのだ。
私はというと、鷽の群れに蕾をいくらか食い荒されたものの、平年並みに花をつけることができ、綺羅を飾った女たちのような晴れがましい気分に酔いしれていた。水面にくっきりと映った私の虚像は実像よりも数倍華やかで、前科者の虚像は実像よりも一段と誇らしげだった。彼はもはや軽挙を慎まなくてはならぬような男ではなく、怒りに任せて大失態を演じてしまうような人間でも、まほろ町にとって場違いな輩でもなかった。彼は私の下で酒を呑み、正体もなく酔ってごろ寝し、眼が醒めると、芽が一斉に膨らんで梢全体がぼうっと翳る白樺林のはるか向うに、オオルリのさえずりを聞き、不憫な甥の足音を聞いた。
(4・7・金)
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