『千日の瑠璃』173日目——私は錯覚だ。(丸山健二小説連載)

 

私は錯覚だ。

微小な変動をも鋭敏に捉える、静かな早春の朝まだき、世一の姉をがんじがらめにする錯覚だ。風邪気味で少し不快な気分の彼女の頭は、私をすんなりと受け入れてしまう。つい今し方、三度ベルが鳴ってぷっつりと切れた電話、彼女はそれをあの男からの誘いに違いないと信じこんでいる。間違い電話ではないのか、などとは決して考えない。

きのう彼女は、たしかにあの男と町で立ち話をした。しかし、さほどの会話にはならなかった。男は自分の作ったストーブの調子をたずねただけだったし、彼女は「ええ、とってもいいですわ」と答えただけで、ほかのことには一切触れなかった。たまには図書館へもきてくださいとか、趣味は何ですかとか、今度隣りの町へ遊びに行きませんかとか、そうした展開には残念ながらならなかった。無理矢理話題を作る努力もしないで、ふたりはそのままあっさりと北と南に別れた。

私は彼女を焚きつける。脈は充分にある、と言い、口ベたなだけで、本当は会いたがっているのだ、と言い、電話でなら気持ちを伝えられると考えたに違いない、と言う。彼が後足を踏んだのは、時間が早過ぎて気が引けたからだろう、とも言ってやる。私にそこまで煽られた彼女は急いで床を抜け出し、鏡台を相手に自己を買い被り、どうすれば頑丈なストーブを故障させられるかなどと本気で考え、いつもより念入りに化粧を始める。
(3・22・水)

丸山健二×ガジェット通信

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