『千日の瑠璃』164日目——私はカメラだ。(丸山健二小説連載)
私はカメラだ。
斜陽のなかでしんと静まり返っている山上湖に向けられた、三十五ミリの全自動のカメラだ。このとんでもない季節に、このとんでもない山国へ新婚旅行にきた若いふたりは、互いに記念の写真を撮り合ってから、私を通りすがりの少年に渡した。渡すと同時に、頼む相手を間違えてしまったことに気がついた。しかし、ほかには誰もいなかったのだ。ふたりは、片時もじっとしていない少年の体のせいで写真がぶれるのを承知のうえで私の前に立ち、「そう、そのボタンを押して」と言い、「もう一枚お願いね」と言った。
少年は三度シャッターを切った。だが私がおさめたのは、着水に失敗して不様につんのめる経験不足の若い白鳥と、ボートを出してワカサギ釣りを楽しむ片腕の男と、結婚式のあとのことを何も考えていない男女の笑みにこびりついている一抹の不安だけだった。それでもふたりは少年に礼を言い、言葉だけですましてはわるいと思い、持っていたミカンを袋ごと渡した。
ふたりは去って行く少年に向って手を振った。少年は湖を離れ、川筋に沿ってふらふらと進み、思い出したように振り返って、大きく手を振った。「いい子ね」と女は言った。「うん」と男は言った。そして少年の後ろ姿に向けられた私は、この旅にとって何よりの記念を見事におさめた。それからふたりはまほろ町の絵葉書を買い、夕方のバスに乗った。
(3・13・月)
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