『千日の瑠璃』156日目——私は春一番だ。(丸山健二小説連載)
私は春一番だ。
まほろ町に吹いたなかでは比較的早いほうに入る、だからといって何も不都合なことはない、春一番だ。私は通りを勢いよく駆け抜け、北風がためこんだ塵芥や疲労感を吹き飛ばし、日当たりのいい土手に群生する青い小花を一斉に咲かせ、うつせみ山で冬眠中のけものに行動再開の合図を送り、うたかた湖の魚類と水禽には、冬のあいだに消尽した精力を取り戻すきっかけを与えてやる。
かくして私は、この世を謳歌する権利というやつを、生きとし生けるものすべてに等しく配るのだ。日に日に病状が悪化している入院患者のうち何人かは、私を満面に受けた途端、必滅の運命を忘れる。凍てついた地盤のせいで難渋を極めた架橋工事は、ようやく窮状を脱する。嫁いでまもなく身籠った女は、辛うじて流産を免れる。身過ぎ世過ぎの苦しさに堪えきれそうにない女は、国もとへ長い手紙を書くのをやめて、梅の花の歌を口ずさむ。急に湯量が増した谷川の露天風呂は、もうもうと湯煙をあげて人々を誘う。まほろ町の経済に新しい動向が出てくるかもしれないという巷間の噂が、更に一段と強まる。
そして、雪の白に閉じこめられて縮んでいた少年世一の、意味も目的も無しに生きるという、生来賦与された瑠璃色の才能が、ゆっくりと花開いてゆく。また、幼鳥から成鳥となった籠の鳥は、春のさえずりを以て世一の魂に格段の飛躍を遂げざせようともくろんでいる。
(3・5・日)
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