『千日の瑠璃』148日目——私は逃亡だ。(丸山健二小説連載)

 

私は逃亡だ。

逃げ出したところで、追い掛けてくる者は当人自身しかいないという、空しい逃亡だ。粥に漬物といった粗食もさることながら、何よりもうつせみ山の寒さに我慢できなくなった若い修行僧に、私はこう言ってやる。もはやこれまでだ、と。手足が両方とも霜焼けにやられ、皮膚が破れて血が滲み、それでも尚氷よりも冷たく感じる雑巾を持って長い廊下を這いずり回らなくてはならない彼は、とうとう私の意見を全面的に受け入れる。私はこう言って駄目押しをする。「ここはただの自虐趣味の連中のたまり場だぞ」と言い、「悟る前にくたばっちまうぞ」と言い、「座禅なんて普通にも生きられない小心者が考え出した誤魔化しなんだぞ」と言った。

彼は私に同意する。そして、まだ仲間が眠っているうちに床を抜け出し、何も持たずに外へ飛び出して行く。そこまではいいのだが、そのあとがまずい。極度のビタミン不足がもたらした脚気のせいで膝に力が入らず、どんなに頑張ってはみても雪道をそれ以上進むことができず、山門の前で敢えなく倒れてしまう。彼はしばらく休んで脚力を取り戻そうとする。だが、いくら休んでも立ち上がることさえできない。夜明けを控えて、気温は更に下がる。凍死を恐れた彼は、励ます私を押しのけて、仲間に助けを求める。その不様な声に応えたのは、どこかのオオルリのみだ。もはやこれまでだ、というさえずりが聞える。
(2・25・土)

丸山健二×ガジェット通信

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