『千日の瑠璃』134日目——私は氷だ。(丸山健二小説連載)
私は氷だ。
十数年ぶりにうたかた湖の隅から隅までをきちんと埋め尽くした、一驚に値する氷だ。これまでの私は、日陰の波の立たないところでいじけていたものだった。ところがこの冬は連日の寒波で俄然勢いづき、白鳥たちの塒を奪うまでに成長した。そうは言っても、まだワカサギの穴釣りやスケートが楽しめるほどの厚さではなかった。《危険》と記された立て札が岸のあちこちにあった。
うたかた湖は、大量の水と、水生動植物の命の気配を秘めたまま、緘黙していた。波音抜きの風の音は少年世一を誘い、丘を下ってきた彼は疑いもしないで、いきなり私の上に飛び乗った。彼は地面とまったく変らぬ調子で大胆に歩き回り、そして、つつうっと滑ってみせたりもした。私はぴしっ、ぴしっという音を発して、警告を与えつづけた。軽過ぎる体はともかく、おまえの重過ぎる魂までは支える自信がない、と言ってやった。
しかし世一は耳を貸そうとせず、更に沖の方へと出て行った。案の定ひび割れが生じ、それはみるみる広がった。けれども世一は無事だった。ずぶ濡れになって心臓麻痺を起こしたり、肺いっぱいに冷水を呑んで窒息したりすることはなかった。冬の新しい遊びにすっかり満足して家へ帰って行く世一に向って、私はふた言呟いた。「おまえという奴はどこまで運のいい奴なんだ」とそう言ってから、小声でこう言った。「どこまで不運な奴なんだ」
(2・11・土)
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