プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希(前編)

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希(前編)

この記事は『LinkedIn navi』の『プロフェッショナルインタビュー』から寄稿いただきました。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希(前編)

広告業界に新しい概念「コミュニケーション・デザイン」を提唱し、業界内外からもその動向が注目され続ける岸さん。いわば革命者であり開拓者でもある彼が手がける仕事は、企業広告はもとより、商品開発や事業デザイン、アーティストのプロデュースなど多岐にわたります。旧来の“広告”に対する考え方に一石を投じた“コミュニケーションをデザインする”という発想の源泉や、異端児とも称される所以を探ります。

プロフィール

岸 勇希(きし ゆうき)
1977年 名古屋生まれ。東海大学海洋学部水産学科卒業。早稲田大学大学院国際情報通信研究科修了。中央大学研究開発機構(専任研究員)を経て2004年電通に入社。中部支社雑誌部、メディア・マーケティング部を経て、2006年より東京本社インタラクティブ・コミュニケーション局クリエーティブ室勤務。2008年から、新設されたコミュニケーション・デザイン・センターにて現職。同年に執筆した電通刊『コミュニーケションをデザインするための本』が話題を呼ぶ。国際的な評価も高く、2010年にはカンヌ国際広告祭審査員を務めた。また開発した『PhoneBook』はMOMAの収蔵作品となる。近年は東京大学の講師なども兼任。

ウェブサイト「メモ帳ブログ」: http://yukix.com/memo/[リンク]
近日刊行予定『こころを動かす。の見つけ方』特設サイト:http://kokorougokasu.jp/[リンク]
Twitter: @yukixcom[リンク]

第1章
クライアントがもつ課題を解決し、人の心を動かす
“コミュニケーション・デザイン”が注目される理由。

―岸さんは『トヨタ自動車 アクア』や『永谷園 生姜部』などの画期的な広告制作だけでなく、話題の商業施設『東急プラザ表参道原宿』のプロデュースなどにも関わっていらっしゃいます。いったい何者? と感じる活躍ぶりですが、実際の仕事内容について教えてください。

仕事の内容は多岐に渡っています。共通していることは、“伝える”だけでは解決できないような課題を対象としている点でしょうか。そもそも業種や分野で自分の仕事を規定していないので、周りから見ると何屋かカテゴライズしにくいのだと思います(笑)。最近は特に、誰に相談していいかわからないような案件や、領域を横断するような仕事のご相談を頂くことが多いです。

そもそもの専門は広告コミュニケーションなわけですが、積極的にこれを超えていきたいと思っています。「広告」は基本的に“伝える”ことに重きを置いて進化してきたものです。実際これまでは、より広くの人に告げることで商品が売れたわけです。“伝える”が、課題解決の最良の方法だったわけですね。ただ残念なことに最近では、ただ伝えるだけでは解決しないような課題もたくさん増えています。僕は広告を作るというよりは、課題解決のプロでありたい。 “伝える”に固執せず、それ以外の方法、主に世の中にある様々なコミュニケーションについて思考、駆使していきたいと考えています。

―なんだか難しそうにも感じる”コミュニケーションをデザインする”という考え方ですが、もう少し詳しく聞かせていただけますか。

やや抽象的な話になりますが、まず僕にとってコミュニケーションとは、皆さんが日頃使うコミュニケーションという言葉よりは少し広義なものとして使っています。広く解釈したほうが、自分の仕事を広げるうえでも都合がいいですしね(笑)。あらゆる2点以上の点の間に存在しえるものがコミュニケーションであり、そこが僕の仕事の場だと思っています。例えばAさんとBさんの間。あるいは企業と社会の間、国と国の間、場合によれば建物と人、商品と消費者、どんなものの間でも構いません。何かしらの関係性が存在する間には、少なからず各々の意図があり課題があったりします。

こうしたあらゆる間に存在するコミュニケーションに介在すること、つまりデザインすることで、課題解決していくことが僕の仕事なんです。ここで大切なのが いかにして“人のこころを動かすか”ということです。どうしてもビジネスは“仕組み”や“モデル”が先行しがちですが、人は往々にして仕組みだけでは動いてくれません。「仕組みではなく、人の気持ちをデザインすること」が最も大切だと考えています。そしてこの人の気持ちを動かすというやり方は、あらゆる領域において通用する普遍的なことだと思っています。「どうやったら人の心が動くのか」という点を軸においているからこそ、コミュニケーション・デザインの領域は、どんどん広がっていると思います。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―伝えて気持ちを動かすのと、具体的に違う点などはあるのでしょうか?

少し抽象的すぎたので例え話で補足しましょう。僕がよく使う例え話ですが、ある人にカレーを食べてもらって「おいしい」と言ってもらうことがゴールだとしましょう。普通であれば、当然の方法として最高のカレーを作ろうとします。つまり“伝える内容”、この例で言えば、味を追求することがその最良の方法だからです。もちろんこの方法は間違っていません。美味しいカレーをつくれば、相手は「おいしい」と言ってくれるでしょう。課題解決です。しかし、ここで重要なことは、カレーをおいしいと思わせる方法は、味以外にも存在するということです。

例えばこういうのはどうでしょう? おいしいと言わせたい相手が、1年間一度もカレーを口にしないよう、あらゆる方法で邪魔をしてみたら? 周りの友人、家族にワイロを送って、とにかくカレーを断絶させて欲しいと(笑)。散々邪魔した後、1年くらいしてから、その人にカレーをご馳走します。きっと特別なカレーでなくとも、彼は心から美味しいと言ってくれるでしょう。

今デザインしたのは、味そのものではなく、彼のコンディションの方です。広告に変換すると、“伝えるべき内容(質)”ではなく、“伝わり方”、コミュニケーションが展開される環境自体をデザインしたことになります。当たり前ですが、味が大切ではないという話ではありません。相手のコンディション、つまりどのような状況でカレーを食べてもらうのかということもデザインの対象であり、ここも含めて、人の心の動かし方をつむいでいくことが大切で、より高い精度で課題解決できるわけです。

―とてもわかりやすく、そして刺激的な発想ですね。実際にコミュニケーション・デザインの発想を活かした事例を教えてください。

最近開館したばかりの『すみだ水族館』の展示に一部たずさわらせて頂いたので、その事例をご紹介しましょう。皆さんも水族館に行かれたことはあると思いますが、どうしても全ての展示が目玉というわけではありませんよね。特に生き物に興味のない方にとっては、ちょっとだけ覗いて、通りすぎてしまうような水槽もあったりするわけです。生き物の名前や解説も、残念ながらなかなか読んでもらえなかったり。

せっかく魅力的な生き物を展示していても、その魅力がきちんと伝わらないという課題があるわけです。そもそも展示というのは、展示している情報を、お客さんに一方向に提供することが一般的です。解説も同様ですね。熱心に読もうとしてくれる人には機能しますが、興味のない人にはスルーされてしまいます。

今回は、こうした“展示”に、コミュニケーション・デザインを施しました。それが“語りかけてくる展示”です。今すみだ水族館の“ハリセンボン”の水槽内には「針、千本ない。平均で360本程度。」と不思議な言葉が水中に浮かんでいます(笑)。普通であればお客さんも素通りしてしまうような“カスリフサカサゴ”の水槽には「かわいいのに猛毒。飼育員が刺されて大変なことになりました。」という文字が。合計で、30の小型水槽内に、30の固有の言葉を展示しました。

水中に生き物と一緒に言葉を入れる。ただそれだけのことですが、現在この水槽は、常に人が集り、写真を撮る人、一緒に来た人と言葉を読んで笑っている人と、大人気のコーナーになっています。一方通行だった展示が、“語りかけてくる展示”によって、興味のなかった人を引きつけ、さらに一緒に見に来た人との会話、コミュニケーションを促すようになりました。さらには、来訪者が水族館の職員と話す機会が増えたり、SNSにこの水槽の写真がUPされ、いわば勝手に広告されたりと、予想以上のアクションとコミュニケーションが生まれています。

特別新しいテクノロジーやシステムを用いるわけでもなく、シンプルなアイデアですが、展示に新しい価値を、さらにはお客さん同士のコミュニケーションを創出させることに成功しました。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―なぜ、そこまで「気持ちをデザインすること」を目指すのですか?

人の心を動かすことの追求こそが最も難しく、究極的なテーマだと思っているからです。あらゆるコミュニケーションをデザイン可能な対象だと信じ、駆使する。最大限の力を発揮できるよう考え抜く。「もっと知りたい」「もっと見たい」「もっと人に言いたい」など、人を動かすためのエンジンとなる“気持ち”や“動機”をアイデアによって生み出すことに挑み続けたいんです。

難しそうに聞こえるかもしれませんが、決して特別なことではありません。すみだ水族館の事例からもわかるよう、別に最先端の科学や技術がない限り人を動かすことができないというわけではありませんから。大切なのはアイデアです。アイデアで人の心を動かす、そして人や社会を動かす。僕が作りたいものは、商品や作品というよりは、それを道具にして動く人の心。気持や体験、記憶、感動といった目に見えない価値なんです。だからこそコミュニケーション・デザインによって解決できることは、まだまだたくさんあると考えています。これから先も一生をかけて一つでも多くの課題を、この考え方でクリアできたらと思っています。

―目に見えないものとは、たとえばどのようなことでしょうか。

すみだ水族館の例で言うならば、“語りかけてくる展示”を見ながら、お父さんが魚について解説してくれたという思い出や、皆でワイワイ写真を撮ったという記憶がそれにあたります。僕が作りたいのは、大きさに限らず、個人の中に残り続ける、エモーションなんです。もう一つ、トヨタ自動車さんの『AQUA』のキャンペーンについてご紹介しましょう。

『AQUA』は世界一低燃費の最新のハイブリッドカーです。圧倒的に燃費が良いので、『AQUA』に乗り換える人が増えれば増えるほど、環境はよくなっていきます。広告コミュニケーションでも商品特性である“未来をよくしていく”ということをコンセプトにしたいと考えました。

そこで「アクア」の名前にちなんで“水”をテーマにした環境活動を全国で展開するフェス『AQUA SOCIAL FES!!』というイベントを行うことにしました。CSR※ではなく、広告コミュニケーションとして、社会活動を取り組んだわけです。全国50箇所、1年間で約150もの参加型環境プログラムが今も展開されています。この活動の最大のポイントは、一般の方だけでなく、トヨタの方や地域の販売店の方、NPOの方なども積極的に参加しているという点です。様々な立場の方が一緒になって参加することで、これまで車の売買ということでしかコミュニケーションする必然性がなかった人たちが、地域貢献活動を通じて、車以外の話をしながら、つながっていくという、新しいコミュニケーションのきっかけが各地で生まれているのです。


CSR…
企業の社会貢献活動。

今『AQUA SOCIAL FES』はこうしたコミュニケーションがきっかけで、公式なプログラム以外の、参加者やディーラー主催による自発的な活動が生まれるまでになっています。ただ“知らせる”ための広告ではなく、未来を良くする方向にコミュニケーションを設計していく。さらにそこでは、これまでなかった新しいコミュニケーションが生まれていく。これこそが僕が目的としている“目に見えないもの”を生み出すということです。
人の心を動かしてこそ伝わる価値があり、だからこそ解決できる課題があるのです。人が動くということはどういうことなのか──全てがここに立脚しています。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―ものすごく複雑な考え方をなさっているのかと思っていましたが、そうではない、シンプルな力強さと情熱を感じます。その情熱の源泉は何なんですか?

なんでしょうね? でもひとつ言えるのは、僕はハッピーでいたいんです(笑)。でも残念ながら自分一人だけではなかなかそうなれない。自分がハッピーであり続けるためには、僕の周りがハッピーであってくれないと無理です。だから、関わる人全てのハッピーの総和をできるだけ大きくしようと思って生きています。決して偽善じゃないです。所詮僕が幸せであり続けるための条件ですから(笑)。

例えば仕事において。僕が考えるハッピーの総和とは、クライアント、社会、スタッフの3つの総和です。クライアントが満足しているのにスタッフが悲しいということはないでしょうし、社会がハッピーであればクライアントも満足だと思います。そこを上手く設計していくことが僕の役割と言えます。

そして実はこれこそがコミュンケーション・デザインなんです。コミュニケーション・デザインは外向き、つまり社会やビジネスだけのものではありません。あらゆるコミュニケーションがデザインの対象になるわけですから、スタッフとのコミュニケーション、クライアントとのコミュニケーションも当然例外ではありません。だからこそハッピーの総和最大化を目指すわけです。

ちなみにハッピーと言いまくっているので、楽しい気持ちになってきますが、そのプロセスは地獄でいいと思っています。スタッフは当然、クライアントに対しても容赦しません。どれだけ道のりが厳しくとも、最後結果さえでれば、全員必ずハッピーになると知っているからです。その状態だけを信じて進んでいくので、必ずといっていいほど道のりは険しくなります。

デザインは常に未来に対して仕掛けるものだと思っているので、生み出すプロセスでは常に不安がつきまといます。だからこそ“今できること”の最大値を追求すること。エラーを恐れず、トライ&エラーを重ねること。

──すべてのものは瞬間の積み重ねなので、瞬間瞬間における思考量をとにかく大事にします。そしてそのプロセス自体がクライアント、スタッフ、社会の全体の幸せの総和を高くしていくのです。いずれにせよ中途半端にやって結果が悪かったら、必ず誰かは嫌な思いをしますからね。自分を含め必ず全員ハッピーで終わらせる。これに尽きると思います。

でも、そのゴールを求めすぎているのか、挫折知らずのように見えるらしいのですけど、それは大きな誤解です(苦笑)。むしろうまくいかなかったことの方が圧倒的に多い。計画通りにいったことなんて、全くないんですよ……。

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第2章
人生の不条理を味わい、ダークサイドに堕ちた学生生活。
その過程で痛感した「3つの大切なもの」とは?

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―パワフルな岸さんですが、どんな子供時代を送られていたのでしょうか。

名古屋で生まれ、19歳まで名古屋で育ちました。家族は皆、とにかくよくしゃべる明るい家庭。そりゃ僕もよくしゃべるようになりますよね(笑)。幼いころから、僕がやりたいと望んだことは、できる限りやらせてくる両親でした。ありがたかったのは、なんでもわがままを叶えてくれたということではなく、常にその対価と責任を求められてきたということ。それは幼いころから徹底されていました。たとえば、小学校の低学年だったと思います。車で出かけた先で、なにかしら親とけんかをし「お金さえあれば一人で家まで帰れる」とダダをこねた僕に対して、「帰れるなら、帰っていいよ。じゃぁね。」と、お金を渡され車を降ろされたことがありました。自分で言ったことは、自分で責任を取らなくてはいけない……。泣きながらバスと電車で家まで帰り着いたそうです(笑)。

自由と選択、それに伴う責任については、徹底的に叩き込まれたと思います。元々商売人の家系で、親戚の多くが中小企業の経営者で、サラリーマンが一切いない環境でした。そういう環境で育ったことも今の自分には資産になっているような気がします。

ちなみに車のエピソード、大人になってから知ったんですが、実は心配で仕方なかった父が、僕に気付かれないようにこっそり後ろから尾行して、家に着くまで見守っていたそうです。ちょっと笑えますよね。うちの親らしいエピソードです。

―それは微笑ましい。その頃、将来の夢などはありましたか?

子供のころからずっと、研究をしたり、考えることが好きでした。だから当時の夢は、海洋生物学者か昆虫学者でした。実家には、自分が絵を書いて作った図鑑が今も残っています。今思うと、あの頃から、物事を考えて体系化することをやってたんだなぁと思います。

自分で言うもの謙虚じゃありませんが、昔から考えるスピードには自信がありました。あとは複雑なものを図式化したり、整理して人に伝えることは得意です。逆に、集中力を維持すること。じっくり物事に取り組むこと。こつこつ記憶することなどは本当に苦手でした。今も苦手です(笑)。小さな頃から自分の得意、不得意なことはある程度判っていたような気がします。

―今にも通じる強みですね。ほかに、岸さんが夢中になっていた事柄や、打ち込んだ部活などはありましたか?

昔からせっかちで、飽きっぽいことを親に指摘されるような子供でした。ただ、いろいろなことを吸収するのは早く、いわゆる器用貧乏でした。勉強でもスポーツでもだいたい2番。飽きっぽいために、夢中になってもすぐに飽きてしまう。不思議と1番がとれないことに対するコンプレックスはありませんでしたが。

小・中学時代はバスケットボールをやっていましたが、その後、中学からは競技ヨットを始めました。高校時代には国体の強化チームに入って、ユースの世界選手権に出場するほど打ち込みました。そんな中、人生最初の“不条理”を味わったのは高校受験のことでした。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―ええっ、何か事件に巻き込まれたのですか?

いや、体育の授業中に足を骨折したというだけの話なんですが、個人的にはこれが“屈折人生”の始まりだったという話です(笑)。骨折は、友人の不注意が原因で、明らかに自分に責任がないものでした。問題は骨折に伴う欠席のために体育の評価が「5」から「3」になったということです。

今こうして話していると、どうでもいいい些細なことなんですが、でもその頃は大事件だったんです(笑)。内申点のマイナス2は当然志望校選択に大きく影響します。やむなく第一希望の高校を変更することになりました。なんだそれ! と怒りが爆発したのを今も覚えています。人に巻き込まれた事故、それも授業中の話なのに、なんで自分が責任をとらなくてはいけないのか? 初めて実体験で“不条理”を認識した瞬間でした。 そして、これを始まりにして、その後実に多くの不条理が自分の人生には憑きまとうんです。正直、今の自分をつくったのは、敗北感、劣等感この二つであり、逆に言えば、だからこそ今があるのかもしれません。

―それはスポーツが得意だった中学生にとってはあまりにひどい(笑)。高校時代はどうでした?

今でもそうですが、飽きっぽいながら何にでも広く興味をもちました。ですから趣味は「多趣味」と答えるような生徒でした。親や先生からは、「お前は散慢で深さがない。」と、ことあるごとに言われ続けていました。自分でもその問題点はわかっていたので、悔しいのと、でもどうしていいのかわからないので、「広さも深さである」という文章を書いたことさえありました。今話していて、この頃から自分の考えや感情を文章や企画書として発散していたことを思い出しました。意外と昔から変わってないんですね(笑)。いずれにせよ自分なりに物事を考えることが好きでしたし、深くない=浅いと言い切られることが我慢ならなかったんだと思います。

と、まぁ鬱屈した思いこそありましたが、基本は陽気な性格なので、高校生活は学校にヨットに、思い切り楽しんだ時期でした。明るい時代でした。こうして幼い頃からの海洋生物への興味と、ヨットでさらに海に魅せられて……自ずと海洋学を学べる大学を目指すようになりました。そして大学受験で、次なる“不条理”に出会います。現役で受かった大学が嫌で浪人。浪人したにも関わらず、結局翌年、その大学に行くことになったんです。

―そもそも海洋学を希望していたことが驚きです!浪人時代を経て、岸青年は大きく成長するわけですね。

恐らくこの辺が今のところ自生で一番腐っていた、暗いダークサイドを生きた時代でした。高校受験で挫折したコンプレックスからか、大学はいわゆる“学歴の高い”大学に行きたかった。まぁこの発想自体がダサいわけですけど。自分の興味や分野的には東海大学海洋学部は最高でしたし、まさに学びたい事の学べる大学だったわけですが、正直プライドが許しませんでした。浪人してでも国立に行きたいと思いました。ですから浪人中はよく勉強しました。一番時間を割いていたヨットも引退をしました。そのおかげか模試での成績も、京大農学部や北海道大学水産学部等もコンスタントにA判定、合格圏内に入っていました。

ここで人生最大の“不条理”に出会います。突然センター試験の入試制度が旧課程から新課程へと変わり、本試験でその影響をまともに受けたのです。合格確実と言われていた国立大学はまさかの両方とも不合格。受かったのはまたも同じ東海大学海洋学部となりました。

正直性格が歪むほど落ち込みました。入試制度を変えた誰かを恨みました。国が作ったシステム、フェアでないルールに負けた。仕組みや体制によって自分の人生がねじ曲げられることに怒りと絶望を感じました。親には「廃人になるんじゃないか」と心配されるほど(苦笑)。もちろん、今もこのことは根にもっていますが(笑)。まぁ、不条理なルールを跳ね返すだけの力が自分になかっただけの話でもあるわけで、こう言える自分は少し大人になったと思っています。

そんな屈折した暗い想いを抱きながら、一度自分が行きたいのはここではない、と決めたはずの東海大学海洋学部に入学をしました。屈辱的な入学でした。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希

―それだけ海洋関係の勉強に励みながら、夢だった学者の道に進まなかったのはなぜですか?

浪人したのに……という敗北感は、かなり長く引きずっていました。この頃の後遺症か今も卑屈な精神構造は残っています(笑)。ただ、元々学びたかった学問だったということもあり、大学時代はとにかく勉強に没頭しました。勉強がとにかく楽しかったし、見返してやりたいという思いが自分を突き動かしていました。

そしてこの時期にコンピューターに出会いました。当時はまだWindows95が発売されたくらいの頃です。一般的には「インターネットというものがあるらしい」というような中で、パソコンにハマっていきました。特に統計学や多変量解析に夢中になり、ひたすらC言語などのプログラミングを覚えて数式を解いていました。ちなみに意外にも当時一番のめり込んだのはエクセルでした。計算のプロセスを見て判断を要する統計学や多変量解析では、エクセルが便利でした。あとはFLASHに出合い、没頭しました。趣味でつくりはじめたウェブがいつのまにか仕事になって、学生時代からガシガシ稼いでいました。

学部を卒業後は、さらに海洋生物の研究を続けたいと思って大学院への進学も考えました。ただ結論から言うと、このタイミングで大好きだった生物学との別れを決めました。生物学はとても面白いですし、今も大好きですが、どうしても辛抱強く観察を続けたり、研究結果が出るまでの長い時間に耐えるという研究スタイルが自分には向いていないと思いました。少なくともウェブのように、インプットからアウトプットまでが速く、インタラクションという刺激を知ってしまった自分には、このゆっくりと流れる時間が受け入れられませんでした。

結局、思い切って専門分野を変更。早稲田大学の国際情報通信研究科という社会人大学院に入学をしました。この大学院は、情報技術から社会学、メディアまで情報分野を横断して学べる大学院で、当時の自分の興味領域としてはぴったりでした。ここで学んだ情報通信関連の技術やメディア論は、今も自分の支えとなっています。

―浪人生から大学生と、学生時代を通じて今でも自分に影響を与えてることなどありますか?

具体的なエピソードではないのですが、この頃から自分の思考を体系化することが好きだったようです。①論理的思考 ②複眼的思考法 ③プレゼンテーション能力、この3つを強く意識していましたし、これをまとめた文章も残っています。

①については、とにかくせっかちだった自分への自戒を込めて。勉強しても、すぐ回答集をめくって答えを見たがるような浪人生でしたから(笑)。②は先に述べた”広さも深さになる”ということを証明したかった意味もあります。また、①と②の才能があるのに評価されず、逆に2つともないのに③だけあるやつが評価されることも許せなかった。この3点は翌年からの学生生活はもちろん、今もつねに意識していることです。

―確かにその3点は、岸さんを形づくる大きな要素になるのだと感じます。

プロフェッショナルインタビュー:岸 勇希(後編)に続く

※この記事は『LinkedIn navi』の『プロフェッショナルインタビュー』から寄稿いただきました。

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