『千日の瑠璃』101日目——私は食器だ。(丸山健二小説連載)
私は食器だ。
犬用の物としてはまずまずの部類に入るが、しかし些か眩しいかもしれない、ステンレス製の食器だ。雪間の午後、いつもの調子で私に細長い吻を突っこんでいた黄色い老犬が、ドッグフードをひと口食べるたびに、元気をなくしていった。それでも、私の底に映る幼い主のあどけない笑みを見たさに、かなり無理をして食べつづけた。そして最後のひと口を終えたとき、犬としては長くて幸福だった生が、呆気なく終息したのだ。
すると、光や死というものをまだ知らない盲目の少女は異変に気づき、物心がついたときから傍にいて、親よりも深く付き合ってきた愛犬の名を幾度も呼んだ。取り乱した声は積もった雪に吸収され、誰の耳にも届かなかった。だが、ちょうど路地裏へと差しかかったあの少年だけは聞きつけた。特徴だらけの、一度耳にしたら絶対に忘れない足音で近づいてくる相手を知った少女は、そっちへ大きく手を振って助けを求めた。
少女は少年の震えのとまらない体に、ひしと縋った。光も死もよく知っている少年は、犬の頭をつかんで骸を私から引き離し、ついで、大切なのはこっちだといわんばかりに、犬ではなくて私のほうを少女の手に握らせた。怒った少女に放り出された私は、汚水が淀む側溝へ落ちた。水浸しになっても、老犬が舌を使って私に記した、この予をどうかよろしく、という意味の遺志は消えなかった。
(1・9・月)
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