『千日の瑠璃』89日目——私はコオロギだ。(丸山健二小説連載)
私はコオロギだ。
縁の下に潜み、風呂場のぬくもりに頼って少しでも長く生きようと頑張るコオロギだ。私はただ生きているだけではなく、まだ鳴くことだってできる。私は、我ながら健気に生きる自身を慰めるために鳴き、そして、毎晩長湯をするこの家の主を励ますために鳴く。養魚池の鯉の跳ねる音が絶えてしまうこの季節、私の役目はとても重要なのだ、とそう自負している。
独りで暮らすしかなく、それが一番似合っている男は、いよいよ冬に閉ざされ、まわりの深い山々からひたひたと押し寄せる沈黙の波によって、ますます世間の片隅へと追いやられてゆく。今夜も彼は、些か心算の狂った、もしくはそうなるべくしてなった半生を、五右衛門風呂にゆっくりと沈めながら、「ああ、刺青は体が冷えていかんなあ」とうめくような声で言う。それから彼は、自分の背中で勢いよく躍っている緋鯉と、私のために、得意の歌を口ずさむ。降りしきる雪の音にならぬ音がその歌と溶け合い、凍てついた地面に深く潜ってゆく。おそらく今夜もまた彼は、ひと晩痛飲するだろう。
「さあ、今度はおまえの番だぞ」と男は私を促す。私はぼろぼろの羽をこすり合せて、切々と胸に染み入る歌を歌う。だが、そう長くは歌えない。男は「いつまでも生きてくれや」と言い、「おれも生きるからな」と言って、刑務所で覚えた歌をふたたび口ずさみ始める。
(12・28・水)
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