創造性と懐疑性

創造性と懐疑性

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

創造性と懐疑性

よく子供の教育について、小さい子供の自由な発想は大事だから、妙に大人の考え方を押し付けて、子供の創造性の芽を摘み取るべきではないという主張がなされる。

自由な発想…甘美な言葉だ。しかし自由な発想というのは、そもそもなんだろう。その正反対の言葉は、おそらく車輪の再発明。情報共有の大切さを説くオープンソースなどでよく言われることだ。

人間の考えることにはそれほど違いがない。先入観や既存の知識なしにオリジナルな思考をしたところで、到達した地点は結局は数千年前に誰かがすでに考えついていたこと、というのはありそうなこと。

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しかしもちろん車輪の再発明にも価値はある。発明する(思考する)プロセスが大事であり、その練習になる。その方法を会得すれば、新に前例のない物を生み出すときに役に立つ。車輪を再発明できない人間は、何も新たなことを発明できないであろう。

ではそのプロセスはどうすれば養われるか。単に「自由な発想」を手放しで尊重する方法では、養われないと俺は思う。新たな物を生み出す能力というのは、既存の概念にとらわれない思考ではなく、既存の概念をその限界まで痛感した先にあるものだと思う。

抽象画で有名なピカソは、最初は写実派だった。写実を極めその限界を痛感したからこそ抽象画という新たな境地を開いたのだろう。写実を経ずに無垢な状態から抽象画を着想できたとは思えない。

絵画は2次元のキャンバスに時間軸を含めた4次元の実態を写し取る作業だ。正面から描いた人物像では、後ろ向きの姿を描けない。人は泣いているときもあれば笑っているときもある。それを写実的な方法では2次元のキャンバスに表現する事はできない。正面と背面、さらに一人の人物のさまざまな時間軸、それを2次元に写し取ろうという試みから、ピカソの抽象画は始まった。

何ら先入観も予備知識もない無垢な状態の画家から、いきなり複数の時間軸まで2次元のキャンバスに描こうという発想が生まれるだろうか。

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既存の発想や価値観を打ち破るには、一度それを習得し、その限界を痛感しないとダメだと思うのだよね。既存の価値観を押し付けず自由な発想を育めば、斬新な発想が生まれるというのは、幻想だと思う。

俺自身でいえば、高校の頃までオカルトが大好きだった(笑)。結構本気で、こんなに世の中には科学で説明できないことがあるのに、なぜまともな研究者たちはそれを無視してるのだろうと考えていた。

教科書に書いてある常識、そして怪しげな本に書いてあるオカルト。この2つの段階だけでは、本当の意味で「科学的な考え方とは何か?」は、わからなかったと思う。教科書に書いてあることは、あまり深く考えず「そういうものだ」と暗記していただけだ。

かといってオカルト雑誌を読んでもただ漠然と「世の中は教科書に書いてあることだけじゃないんだな」としか思わなかった。これも暗記と同じだ。

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俺の心のなかの風景が変わったのは、別のエントリでも書いたが1990年頃の東日流外三郡誌騒動をリアルタイムで体験したことが大きい。俺が東日流外三郡誌というものを知ったこの本

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を読んだとき(1990年)から、ほぼ論争に決着がついたこの本

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が出版される(1993年)までの約3年間、雑誌やNIFTYなどのパソコン通信で、さまざまな論争が行われ、そういった情報を読みつつ自分で、どの意見が正しいのか考え続けた。

当時は偽書か真書か誰も証明できなかったのだから、推理小説を実体験しているようなものだった。それ以前にも「動物電気」などのように「間違っていた事がわかった科学」の知識はあったが、それはすでに間違いだと決着がついた知識でしかない。結果が分かったあとに、後知恵でそれっぽい理屈をこじつけるのとはぜんぜん違う。

最初のうちは俺には何をどこから手を付けたらいいか皆目検討もつかなかった。しかし世の中には賢い人たちがいるもので、彼らは着実に地固めをしながら、じわじわと包囲陣を縮めていった。彼らのやり方を見ているうちにだんだんとコツが分かるようになってきた。

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その後「トンデモ本の世界」(1995年)とかが出て、疑似科学批判ブームが訪れる。オウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年)もあって、社会的にもオカルト批判が盛りあがる。それ以前も疑似科学を批判した本はあったが、そもそもオカルトがマイナーなジャンルであり、それをわざわざ批判する本はさらにマイナーな存在だった。

オカルトを信じる人間がちょっとヒネクレ者だとすれば、わざわざそれを科学的に批判した本を読むのはさらにヒネクレ者、二重のヒネクレ者の人間だったといっていいだろう。

ミスターマリックブームというのもあった。1990年ごろだろうか。手品か超能力か?手品ならどういうタネなのか?タネを暴露した本も出た。

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手品のタネを暴露するのは禁じ手だが(最近はそうでもないが)、テレビ局側が「手品か超能力か?」と煽ったので、解明ブームとなってしまった。

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こうしたややこしいジャンル、二重のヒネクレ者の世界というのは、無垢な状態から自然に到達できる場所ではないと思うのだよね。常識→オカルト(常識の否定)→懐疑(オカルトの否定)という3段階を経てようやく到達できる場所だ。

学校で習った知識を特に疑問を持たずに暗記しているだけの人間にも不可能だし、かといってオカルト雑誌に書いてある妙な記事を鵜呑みにしているだけの人間でも不可能。教科書とオカルト雑誌に書いてあることが違う、どっちが正しいんだ?どうすればそれがわかるのか?と考え始めて本当の意味で科学的思考ができる。

考えるということはそういうことだ。

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既存の知識を与えず無垢の状態から思考させる。すると必要に迫られて本人は、独自に考え方を編み出していく。そういうこともあることはあるだろうが、多くの場合そうやって編み出されたものは、すでに誰かが編み出したものと同じだ。

だから早晩そのやり方は行き詰まる。自分で苦労して生み出したものが、すでに誰かによって生み出されていたことにショックを受け、自分で考えることは無益だと思ってしまうことだろう。それは問題集を自力で解いても、後ろの方にちゃんと正解が用意されているという虚しさと同じように思う。

東日流外三郡誌騒動は渦中にいる間は、誰も正しい答えを知らなかった。だから自分で考える価値を実感できたといえよう。もちろんこれは自然科学の研究も同じで、誰も答えがわからないからこそ自分が研究する価値がある。

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わからないものを人は研究する(考える)わけだ。言葉にするとすごく単純で当たり前のことなのだけど、案外それを忘れている人が多い。「正しい答えを教えろ」と叫ぶことが「考えること」だと勘違いしている人が多いように思う。あるいは正しい答えを「検索して見つける」ことが考えることだ勘違いしている人が多い。

やたら「根拠は?」とか「ソースは?」という人は、相手の「考えること」を否定しているといっていい。相手の考えではなく、相手が参考にした情報の方を重視しようとするのだから。つまりほかの誰かがすでに考えたことしか尊重しないという態度だ。

それは最終的に自分自身の「考える」プロセスをも否定してしまう。ソース(誰かがすでに考えた知識)を見つけ出すことが、考えることだと勘違いしてしまう。そういう人間は何も新たなことを生み出すことができない。

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物事の本質を解明する作業という意味で、「創造性」と「懐疑性」というのは表裏一体なのだと思う。自分で、既存の情報に頼らず、答えを見つけ出す(生み出す)作業。創造性というとなんとなく感性の産物であり、懐疑性というと理屈の産物のように思えるが、おそらく「感性」というものが、無意識の「理屈」なのだろう。

マンガ家を描いた「バクマン。」では、マンガ家には天才型と計算型があるという。自分の感性にしたがって描いたものが大ヒットしてしまうのが天才型。こういうものがヒットするはずという分析にもとづいて描いたものをヒットさせるのが計算型。

けれど両者の違いは表面的なものだけで、本質部分は同じ気がする。「こういうマンガを描けば面白いはず」という計算を、意識してやるか無意識でやるかの違いなのだろう。結局計算をしているのだろう。

追記

個々人の成長の話と、社会を拡張する先駆者の話を混同してるよね? 婉曲に教えられた事を「それを自分で思い付いた!」と思い込みながら成長できた子は幸せだよね。

混同も何も同じものだろうに。

 

また「型破りなことをしたければまず型を覚えなければならない。型がないのは型無しだからダメ」って言う言論か?もう飽きた。結局、まずみんなと同じ道を通って来いってことだろ。それで生き残れるのか?

型すらを覚えられない人間が生き残る方がもっと巌しいと思うけどねぇ。型破りなことをやれば死中に活を求められるというのは、体にダイナマイトを巻きつけて突撃すれば、もしかして勝てるかもというレベル。そういう状況でも、本当にそれしか手がないのか?を考えられる力をつけておくべき。

  

“それ以前も疑似科学を批判した本はあったが、そもそもオカルトがマイナーなジャンルであり、それをわざわざ批判する本はさらにマイナーな存在だった”それは違う。単にメジャーなものに潜むオカルトに無知であるだけ

日本語でOK。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

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