染み入るような警察小説『カタリーナ・コード』

染み入るような警察小説『カタリーナ・コード』

 染み入るような、という表現はこういう小説のために使うべきなのだろう。

 ノルウェーの作家ヨルン・リーエル・ホルストの邦訳第2作『カタリーナ・コード』(小学館文庫)は、経験豊かな刑事、ヴィリアム・ヴィスティングを主人公にした警察小説連作の、第12作にあたる長篇だ。以前に邦訳された『猟犬』(ハヤカワ・ミステリ)は同シリーズの8作目で2012年の発表、『カタリーナ・コード』は2017年の作品だから年一作ぐらいのペースでホルストはこつこつ書き続けていることがわかる。地味な小説なのだけど、ぜひ読んでもらいたい。実は私が解説を担当しているので、以下の文章を身贔屓と受け取られてもやむをえない。でもぜひ、多くの人に読んでもらいたいのだ。

 この連作の特徴は、職人気質で自分の仕事をこつこつやること以外あまり物事に構わないヴィリアムと、彼の娘で新聞記者として働いているリーネの視点とが並行して描かれることである。『猟犬』では、ヴィリアムが17年前に担当した殺人事件捜査で証拠偽造をしたとして告発されることになり、ジャーナリストとしてリーネは辛い立場に置かれることになった。警察官として自分は恥ずべき行いはしていない、しかし、もしかすると間違いを犯してしまったのかもしれない。過去のことゆえ確信が持てずに苦悩する父親を、第三者の視点から娘が支援するという構図が物語を実に深いものにした。いわれのない告発を受けて憤激する主人公、といったありきたりな展開にならないのがこの作家の良いところだ。ヴィリアムの関心は自分自身を掘り下げる方向に進んでいくのである。事実関係を確かめながら、同時に自分の内面にも向き合っていく。そういう小説である。

『カタリーナ・コード』でも過去の事件が出てくる。というより、24年前に起きた事件がまだ解決できていないのだ。カタリーナ・ハウゲンという女性が突如失踪し、杳として行方はわからなかった。事件を担当したヴィリアムは、カタリーナがいなくなった10月10日には毎年ハウゲン家を訪れ、夫であるマッティンと共に過ごす。もはや年中行事のような慣例になっているのである。そのヴィリアムに国家犯罪捜査局〈クリポス〉から意外な命令が下る。24年前の出来事とは直接の関係がないその命令は、実はカタリーナの事件に新たな角度から光を照射するものだった。

 ここで紹介するあらすじは以上にしておく。ヴィリアムの任務が何か書くといい煽りになるとは思うのだが、ここでは触れない。別にネタばらしになるわけでもなく、文庫表4の紹介文には書いてあるのだが、触れない。解説で私自身も書いたのだけど。

 その任務が下ってから、ヴィリアムの仕事は待つことになる。ひたすら、待つ。ある変化が起きるのを、待つ。そういう警察小説というのもなかなか珍しいとは思いませんか。ヴィリアムが待つのは、人間の心理を読んでいるからである。一つの出来事が起きれば、それによって必ず心は動く。その結果起きるであろう動きを彼は待っているのだ。ここが『カタリーナ・コード』の素晴らしいところである。心理の動きを描き、納得のいく人間の姿を浮かび上がらせる。ここでは書かないが、物語の真相は割と早く選択肢が絞られる。AかBか、それしかない話になるのだ。どっちに転んでもさほど意外性はない、はずなのに終盤の展開を読むと新鮮な驚きがある。そうだ、人間はそういうものだった、と深く頷くのだ。ここがいい。長い間沁み込んだ水がついに岩を割った。そんな瞬間を目撃したかのような喜びがある。幕引きでは、この小説を読んでよかった、という感慨があった。

 大事なことをほとんど書いていない。今回娘のリーネは産休明けで、新聞記者としては異例の形で事件に関与することになる。あと、題名の意味も書いておくべきだろう。『カタリーナ・コード』というのは、失踪した女性が謎めいた書き置きを残していたことから来ている。誰にも解けないメッセージ、つまりこれは暗号小説なのである。そのヒントの出し方にも工夫がある。あとなんかあったな。えーと、えーと。そうだ、物語の後半でヴィリアムがキャンプをする場面もいい。釣りが好きな人にもぜひお薦めしたい作品である。

 いつも言うことなのだけど、優れた作品はシリーズの途中から読み始めてもまったく問題ない。せっかくだから第1作から順番に読みたいという声もわかるのだが、ちゃんとおもしろい作品は独立して読めるようになっているから大丈夫だ。『猟犬』が最初に翻訳されたのは、北欧ミステリー最高の権威と言われる「ガラスの鍵」賞とマルティン・ベック賞、ゴールデン・リボルバー賞の三冠達成を成し遂げたからだと思う。『カタリーナ・コード』が選ばれた理由はよくわからないが、英訳された北欧ミステリーに送られるペトローナ賞を2019年に獲得したからだろうか。未訳のシリーズ作品を読みたい気持ちももちろんあるが、この2作に出会えたこと自体で私は満足している。ありがとうホルスト、おもしろかったよ。

 解説を担当したということもあるが、ホルスト作品とは思わぬ再会となって私は嬉しかった。というのも、2016年に作者が来日した際、ノルウェー大使館で開かれた講演会で私は聞き役を務めたからである。ホルストは現役警察官が作家になったということでも話題になった人で、たしかそのころはもう辞めていたかと思う。元警察官だからなのか、ノルウェー大使に会って、彼はちょっと緊張しているように見えた。

 そういえば私は会場に英語版の北欧ミステリーガイドを持参していたのだが、ホルストが本に気づいて、自分の名前が載っているか、と聞いてきたのだった。ちょっと前のガイドなので索引に彼の名前はなかったのだけど、それを伝えたらちょっと拗ねた顏になったのはなかなか可愛らしかった。ごめん、ホルスト。でも今回の本で、日本にファンがたくさん増えると思うよ。私はあなたの小説が大好きだ。

(杉江松恋)

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