確かな足元が崩れ落ちるリンドクヴィスト『ボーダー 二つの世界』

確かな足元が崩れ落ちるリンドクヴィスト『ボーダー 二つの世界』

 足元に確かにあったはずの地面がふっと消失し、無限の落下が始まる。
 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの物語は、そういう感覚に満ちている。

 最新刊『ボーダー 二つの世界』は、スウェーデン・ストックホルム生まれの彼が2006年に発表した短篇集だ。2011年に英語版が刊行された際、2004年のデビュー長篇『MORSE』(ハヤカワ文庫NV)の続篇にあたる「古い夢は葬って」が追加された。『MORSE』はこの作品がアメリカで再映画化されたときの題名で、原題は「正しき者を入れたもう」の意である。本国でリンドクヴィスト自身の脚本によって映画化された作品の邦題は『ぼくのエリ 200歳の少女』だ。2008年に本国で公開されたのですでに10年以上前の作品だが、カルト的な人気を誇るホラー・ムービーなのでご記憶の方も多いはずである。『ボーダー 二つの世界』も、やはりリンドクヴィスト自身が脚本参加して映画化され、この10月から日本でも公開されている。

全部で600ページ以上ある本なのだが、表題作自体は100ページ強の長さである。主人公のティーナは、カペルシャール港で税関職員として働いている。彼女には特殊な能力があって、人の嘘や不安な感情を嗅ぎ当てることができるからである。密輸人にとっては天敵そのもの。しかしある日、ティーナは間違いを犯してしまう。彼女の鼻が嗅ぎ当てた男は、禁制品を何も所持していなかったのである。彼のスーツケースには昆虫孵化箱が収められていた。「虫は好き?」と聞いた男の微笑みに、なぜかティーナは本能的な不安を覚える。

二度目に男がやってきたときにもティーナは荷物を調べるように指示したが、やはり何も発見することはできなかった。しかも身体検査の結果、意外なことが判明するのである。プライヴァシーに関わることであり、不躾にそれを暴いてしまったのは失態だ。謝罪する彼女に男は気にしないように言う。ヴォーレという名のその人物に、ティーナの心は妖しく魅かれ始めていた。

 明かしていい事実はこのくらいまでだろう。不穏な空気が醸成されていき、ヴォーレの身辺に漂うものに、ティーナだけではなく、読者もあっという間に惹きつけられてしまう。リンドクヴィストは社会に潜在する歪みや傾向などを取り出してきて物語に応用する作家であり、本作は第一にルッキズムの小説にもなっている。ルッキズムとは身体的な特徴についての差別的な感情であり、美醜の違いがその人やものの本質をも支配するいうような言説がこれに当たる。ティーナは容姿に問題を抱えており、かつて好意を寄せていた男性から無神経な言葉を浴びせられたことがある。

「ええと、つまりこういうこと。きみはめちゃくちゃすてきだと思う。それでもし……言いたかったのは……まさにきみみたいにすてきで、見た目はちがう子に出会えたらよかったなって」

 なんとか美辞麗句にくるんで言おうとする男の本心をティーナは自ら代弁した。

「ただ、つきあうには不細工すぎる?」

 現在のティーナはローランドというドッグ・ブリーディングを生業にしている男性と同居しているが、本来の意味のパートナーではない。本質的には孤独そのものである。そうした状況にヴォーレはずかずかと踏み込んでくるのだ。きみとおれではなく、おれたちになろうぜ、と言いながら。

 世間から無視され続けた者たちが共に手を取り合う。そういう展開を準備して油断させておきながら、リンドクヴィストはさらに深いところに読者を連れていこうとする。ヴォーレがある秘密を明かした瞬間、読者は足元にぽっかりと穴が開く感覚を味わうはずだ。単純な二元論では終わらせず、問題を浮遊させたままにしておく。何かを選べば何かを捨てることになる。もしかすると最も暗い場所に行ったほうが心の安らぎは得られるのかもしれない。そうやって作者は世界が読者の思っているよりも遥かに広いものであることを示すのである。

 原作の『MORSE』や映画版の『ぼくのエリ 200歳の少女』を知っている読者は、『ボーダー 二つの世界』の仕掛けにも見当がつくかもしれない。ここでは一切触れないが、小説版と映画版はお話が異なっているということだけは書いておきたい。小説が終わったところからさらに続きがあるのだ。それによってリンドクヴィストがやろうとしたことは、小説とは違った形で尖鋭化したようにも思える。小説と映画、どちらから取り掛かっても驚きが減じることはない珍しい作品なので、ぜひお試しを。

 他の収録作について触れる余裕がなくなった。全体的にはホラーのジャンルに入る短篇集であり、トイレが超自然現象に遭遇する場所になる「坂の上のアパートメント」など〈スウェーデンのスティーヴン・キング〉(と呼ばれることも多いらしい)らしい作品も入っている。エリとオスカルのその後がどうなったのか、うっすらと暗示される「古い夢は葬って」なども前作からのファンには気になるところだが、とりあえず試していただきたいのは、原書の題名にもなっている掌編「紙の壁」である。「ぼくが九歳の夏、父さんがトラックの荷台にダンボール箱をのせて家に帰ってきた」という出だしから、これまたキングっぽい印象だが、少年の夏休み物語があっさりと恐怖譚に変わるのが素晴らしい。ごく短い話なので、時間がなかったらこれだけでも読むこと。夏休みを題材にしたホラーの、里程標的な秀作だと思う。

(杉江松恋)

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