宇宙共通の原理としての進化
『天冥の標』がついに完結した。十巻構成だが、数冊がかりの巻もあるので本の数でいえば、全十七冊。足かけ十年にわたる執筆で、物語としては二十一世紀から二十九世紀までわたる長大な宇宙未来史となる。
まず、I〜IX巻をざっくりとおさらいしておこう。
人類の運命を大きく変えたのは、二〇一五年にパラオで発生した謎の伝染病である。のちに冥王斑と名づけられるこの病は、またたくまに全世界へと拡大。致死率九十五パーセントという数字も脅威だが、たとえ回復しても体内にウイルスが残って、周囲に感染を引きおこす点が厄介だった。つまり一度感染した者は、隔離されつづけなければならない。これが人類の分断をもたらす。
やがて感染者は独自のコミュニティを形成。自らの血液を冥王斑ワクチンの原材料として販売することで資金を得て、月へと移住する。彼らは《救世群(プラクティス)》を名乗るようになる。人類と《救世群》は拮抗する。ただし、それは単純な二大勢力の鍔迫りあいではなく、どちらの側にも複数の勢力があり、そのあいだでの駆け引き、利害をめぐる動的なバランスの変遷がある。人間に性的奉仕をするアイデンティティが組みこまれたアンドロイド《恋人たち》(彼らは冥王斑には感染しない)、肉体改造を施した《酸素いらず(アンチ・オックス)》など、新しい種族も登場する。さらに、太陽系には紀元前より異星知性が潜伏しており、それらが人類の歴史にひそかに介入をしている。
《救世群》は主要拠点を小惑星セレスへと移し、二五〇二年、人類に宣戦布告をする。これは消信戦争(シグナレス・ウォー)と呼ばれた。地球に艦隊を送って防衛施設と起動エレベーターを破壊し、主要な大気圏脱出手段を奪う。そして、《救世群》の攻撃部隊が地上へ降りたつ。つまり、完全隔離に成功したはずの冥王斑が、ふたたび地上へもたらされてしまったのだ。
そして、X巻。
消信戦争から二十六年が経過し、地球にはもはや生存者が残っている気配はない。いま太陽系に残っている人間は、避難船アルゴー441号に乗って小惑星帯に残っているかもしれない共同帯を捜して彷徨っている七九九人と、彼らが出会ったクルーザー船に乗っていた八人、併せて八〇七人だけのようだ。
いっぽう、《救世群》は、本拠であるセレスごと太陽系から姿を消してしまっている。セレスの地下に隠されていた謎の動力源ドロテア・ワットを用い、小惑星ごと宇宙船に仕立てたのだ。目ざしているのは、ふたご座ミューの惑星カンム。この大旅行は、じつは《救世群》が主体的におこなっているのではなく、セレスに潜伏していた異星知性ミスチフの仕業だった。ミスチフは実体がなく、生体を持つ知性体に取り憑いてその精神を操る。いまは、植民地メニー・メニー・シープに君臨する女王ミヒルを支配していた。
人口が極度に減ってしまった人類だが、高度AIであるベッチーとそのクローンの力によって地球、火星、主小惑星帯、そのほか太陽重力に従う天体すべてを支配する勢力、すなわち二惑星天体連合(EMarth Pan Astro Alliance)[略称2PA]ともいうべきものが組織される。《救世群》を滅ぼす動機付けがされていたベッチーは、自己増殖的な機構を備えた艦隊を建造。最終的に、2PAが保有する艦隊は五百億隻にも及んだ。その総勢を傾けて、セレスを追撃する壮大な作戦がはじまる。
そのあいだに、セレスでも状況が大きく動いていた。メニー・メニー・シープのひとびとは、長いあいだ、自分たちが太陽系外の植民惑星ハープCの地表に暮らしていると信じていたが、実はそれは人工太陽と歴史の捏造によるかりそめの現実で、実のところ、そこはセレスの地下に広がる空間だった。その顛末が先行する巻で語られている。セレスには人工冬眠をしていた《救世群》もおり、メニー・メニー・シープのひとびとは最終的に、彼らとの和解に成功する。そして、女王ミヒルを倒す。
セレスに追いついた2PAの軍勢は、こうした経緯を知って、もともとの目的だった《救世群》との戦いを放棄する。しかし、もっと大きな試練が待ち構えていた。彼らが進みゆく宙域には、約七十種類もの異星人が群雄割拠の状態にあり、総数三千億隻を超える艦艇が睨みあっているのだ。そこにいま大きな火種が投げこまれようとしていた。ほかならぬセレス地底に潜んだミスチフである。
ミスチフの力は強大であり、通常の攻撃は通用しない。惑星カンムのカミルアン総女王は、ミスチフを滅ぼすため、恒星を爆発させようとしていた。これに巻きこまれると、セレスごと消滅してしまう。メニー・メニー・シープのひとびとと、《救世群》、2PAは力を併せて、恒星爆発を阻止し、それとは別な手段でミスチフに対処できないかと考える。
人類が選んだミスチフ無害化の方法とは? そして、その過程でミスチフの正体、また冥王斑が人類という特定種にとどまらぬ驚くべき感染力を示す秘密が明らかになる。その背後に立ちあがる、独自の進化観が魅力的だ。H・G・ウエルズ以来、「進化」を主題にしたSFは数多あるが、『天冥の標』はまったく新しい視座に到達している。オラフ・ステープルドンからアーサー・C・クラークへ至る神秘主義も、小松左京が『果しなき流れの果に』で示した弁証法も、「進化」を下位から上位へ向かう垂直的上昇として扱っていた。『天冥の標』の進化はそれらと歴然と異なっており、ちょっとアンリ・ベルクソンの創造的進化を思わせる。
作中人物のひとりは次のように言う。
「進化が宇宙共通の原理なのです。ある場において、進化が起こる。エネルギー消費を通じて形を作る現象を、可能な限り細分化して、可能な限り広く行き渡らせようとする作用が働く。それをする形を『生物』と呼ぶのです」
進化の過程で滅んでいく種もある。別な登場人物が「それを悲しいと思っちゃいけないの?」と訊ねる。その悲しさは否定されるものではないが、だからこそ生き残る者が嘉(よみ)されるのだ。私たちが、いまこうして、形を持って話していることは、確率上の奇跡にほかならない。生きていることそれ自体が素晴らしい。
『天冥の標』は争いと滅びと流転の連続であり、この先も人類は(というか生命一般は)その繰り返しから抜けだすことはできないだろう。だが、過去を悔やみ、未来を憂うのではなく、いまの生を肯定しよう。そう思える、力強い作品である。
(牧眞司)
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