加藤登紀子さんを・・・穴が開くほど調べてみた!(その1)

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加藤登紀子1
巷に溢れる疑問をあっさり解決してしまう、敏腕リサーチャーがいる。そんな彼は職業柄、様々なことを穴が開くほど調べてしまう癖がある・・・。それはタレントのプロフィールに関しても同様だ。今回はシンガー・ソングライターとして半世紀を超えるキャリアを誇る「加藤登紀子」さんの年表をご紹介しよう。
東京大学在学中の歌手デビュー…、1972年には学生運動のリーダー・藤本敏夫との獄中結婚など…。波乱万丈の人生を惜しむことなく紹介する。
敏腕リサーチャーの汗と涙の結晶を是非ご堪能あれ。

【年表】1943年12月27日旧満州(現在の中国東北部)ハルビンで満鉄社員の父と洋裁の得意な母の間に末っ子として生まれた。
1945年(2歳)まもなく敗戦となり2歳の時に、母や兄弟とともに日本に引き揚げる。2歳8か月の時に貨物列車に乗って、引き上げの旅を1カ月以上して、佐世保についてそこから又貨物列車に乗って京都駅について、五条辺りにあった母の実家に辿りついた。
1946年(3歳)父が翌年に復員して、家族で東京に出たが、色々と挫折もあり、京都に舞い戻る。(5歳の頃)
小学生時代小学生時代は両親の出身地、京都で伸び伸びと暮らすが、親戚の離れを借りての生活はどこか根なし草の様だった。母の淑子さんは洋裁店で働き家計を支えたが、引き揚げから数年後、父が突然、ロシア料理店をオープンさせると、その店を手伝うようになる。小学校2年生の時にバレエを習いに行き、その後、歌うことが苦手なのはさびしい人生になるという事で歌も習いに行った。
高校生時代家族は東京に移り、高校2年生の時(東京都立駒場高校)に、日米安全保障条約反対を訴えるデモがわきあがり、学校帰りにデモに参加していた。16歳で自立意識がそそりたってくる年齢だった。
1962年(17歳)東大文学部西洋史学科に入学。女子学生がまだまだ少ないころで、入学早々の女子だけのオリエンテーションでは「結婚できるのは20%、一般企業の採用はほとんどなく、研究職か公務員しかない」と脅された。
1965年(20歳)既に学生運動とは距離を置いていた。演劇活動に熱中し、本郷の専門課程へ進む3年生のころには、ほとんど講義に出なくなっていた。第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー、大学からはますます足が遠のくばかりだった・・・。
1966年(21歳)東京大学在学中の1966年に『誰も誰も知らない』で歌手デビューを果たした。現役東大生の歌手デビューは当時、衝撃的だった。同年、「赤い風船」でレコード大賞新人賞を受賞。
1968年(23歳)6年がかりで何とか卒業単位を取った。東大卒業式ボイコット闘争が行われていたとき、「振り袖で来てほしい」という女性週刊誌の要請を振り切ってジーパンで会場に。そこで「運命の人(学生運動のリーダーとしてさまざまな闘争事件に関与した藤本敏夫氏)」と出会い、その後、交際をスタートさせる。
1969年(24歳)自ら作詞・作曲した「ひとり寝の子守唄」でレコード大賞歌唱賞を受賞。シンガーソングライターという言葉のまだ存在しなかった時代、商業のフィールドにいながらして、自らの言葉で表現する手段を獲得していく。1970年には、自作メインのアルバム「私の中のひとり」を発表する。
1971年(26歳)森繁久弥のカバー、「知床旅情」を大ヒットさせ、レコード大賞歌唱賞を受賞。この年、加藤登紀子は、ロシア民謡の「ロシアのすたるじぃ」、シャンソンの「美しき五月のパリ」、歌謡曲の「日本哀歌集」と、三枚ものカバーアルバムを矢継ぎ早に発売している。
1972年(27歳)4月、藤本さんは、公務執行妨害などの罪で逮捕、懲役3年8か月の実刑を言い渡され、中野刑務所に収監された。周囲が交際に反対する中、母の淑子さんだけは交際を後押し。ふたりは獄中結婚を果たす。東大出の歌手と学生運動のリーダーとの「獄中結婚」はセンセーションを巻き起こした。このとき、加藤は長女を妊娠していた。※1973年には、長女の美亜子さんを、1975年には、次女の八恵さんを出産
1974年(29歳)1974年に藤本さんが出所すると、加藤は次女、三女を出産し、3人の子供に恵まれた。その後は母と歌手という二足のわらじを両立させるため奮闘した。
1981年(36歳)生活が落ち着き始めると、藤本さんは食と農をテーマにした活動を始め、多目的農園『鴨川自然王国』(千葉県鴨川市)を設立した。東京から千葉に家族全員で移り住む予定だったが、現実的に厳しく、離れて暮らすことを選択する。ハルビンで初めてコンサートを開き、母と一緒に35年前に貨物列車で引き揚げたときと同じ線路を逆に走った。
1983年(38歳)女優として「居酒屋兆治」に出演。
1987年(42歳)前年に発売されたアルバム「時には昔の話を」に収録されていた「百万本のバラ」。問い合わせが相次いだため、1987年にシングル版として発売された。
1988年(43歳)カーネギーホールでコンサートを行う(1990年にも同ホールでコンサートを行っている)。
1992年(47歳)芸術文化活動における功績に対してフランス政府からシュバリエ勲章を授けられた。宮崎駿監督のアニメ映画「紅の豚」では声優としての魅力も発揮した。藤本さんは農業や環境問題にのめり込み、この年の参院選に、ミニ政党を作って出馬。「紅の豚」が公開される時期だったため、選挙運動を手伝うわけにはいかなかった。結局、藤本さんは落選した…。父、幸四郎(こうしろう)さんが82歳で亡くなり、遺骨をスンガリー(松花江)に流した。
1997年(52歳)WWFジャパン顧問及びWWFパンダ大使に就任し、地球環境問題にも積極的に取り組む。
2002年(57歳)藤本さんは肝臓がんを患い、闘病の末に亡くなってしまう。58歳の若さだった…。最期は「もういいだろう」と、自ら酸素マスクを外したという。2003年には自叙伝「青い月のバラード」、2005年には夫との獄中往復書簡をまとめた「絆」を出版。
2015年(71歳)デビュー50周年を記念し、ヒット曲「百万本のバラ」の生まれたラトビアのリエパーヤ交響楽団と日本ツアーおよびラトビアでコンサートを行う。
2016年(72歳)エディット・ピアフ生誕100年に捧ぐ、加藤登紀子「ピアフ物語」で国内ツアー後、11月にフランス・パリ公演を行う。

次回はそんな加藤登紀子さんの波乱万丈な人生のターニングポイント、大物達から受けた影響など…、ご本人のインタビューなどから抜粋したものをご紹介したいと思う。
乞うご期待!!

(Written by ちゃかし)

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