予断を排して『種の起源』を読むべし!

予断を排して『種の起源』を読むべし!

 あらゆる予断を排して物語の中に身を投じたほうが絶対に楽しめる。

 チョン・ユジョン『種の起源』(ハヤカワ・ミステリ)は、そういう小説である。すでに書肆侃侃房から犯罪小説『七年の夜』が刊行されているユジョンは1965年生まれ、2000年のデビュー以来、常に読書愛好者の関心を惹き続けてきたベストセラー作家である。その第五長篇に当たる作品が本書である。約束しておくが、ジャンル作品としては申し分のないミステリーである。

 ある程度の冊数を読んでいる人なら、全体の10分の1にあたる最初の40ページでどういう類型の話なのか察しがつくのではないかと思う。作者もあえてそこは隠そうとしていない。巻末のあとがきを読めばわかるとおり、チョン・ユジョンには骨絡みといっていいほどに創作上意識し、なんとかして思うような深さまで掘り下げることができないか、デビュー以前からずっと窺っていたテーマがある。本書は、作者が初めてその好機に出会い、大願を成就させた小説なのである。多少のネタばらしなど怖くない、どんとこい。チョン・ユジョンが今ここにいたら、そう言われるかもしれない。あ、忘れないうちに書いておくと女性である。

 でも、これから読む方の興を削がないようにできるだけ情報を絞って書く。

 主人公のハン・ユジンは25歳の青年である。将来のためにロー・スクールに進むことを希望しており、今は合否の発表待ちだ。少年時代はそこそこ名の通った水泳選手だったが、期待されていたにも関わらずその道を放棄せざるをえなかった。彼には持病があり、服薬を続けなければならない。薬を服用するのを止めれば競技者として十二分に力を発揮できる。だが、それによって発作を引き起こす危険があると、主治医であるおばのキム・ヘウォンから診断され、母のキム・ジウォンに水泳を諦めるように命じられたのである。以来ユジンにとって服薬は、人生の失われた可能性を連想させる、暗い印象のものになっている。

 物語はこのユジンが自室で覚醒するところから始まる。彼が住んでいるのは群島新市という海沿いの街に建てられたタワーマンションの最上階だ。メゾネット型の住居の2階に彼の部屋はある。

 目を覚ましたときから血の匂いを嗅いでいた。ここのところ密かに服薬を中断していたユジンは、嗅覚はそれに由来するものだろうと考える。しかし、違ったのだ。彼の身体はべったりと血に覆われていた。ベッドまで続いてそこを終点とする赤い足跡は、部屋の外から始まっていた。大量の血はいったいどこから来たものなのか。扉を開き、ユジンは自分を待つ運命へと向けて歩き始める。

 裏表紙のあらすじにはもう少し先まで書かれているが、予備知識はこのくらいにして本を手にとったほうが絶対に楽しめると思う。ここまで書いたことで明らかなように、本書の主人公には原因が定かではない記憶障害がある。自分が何に巻き込まれたのか、この時点ではまったく見当がついていないのだ。ユジンは現場検証に臨む探偵のように慎重な態度で家の中を調べ始める。

 序盤のクライマックスは、彼が室内に転がっている物証をかき集めて前夜に何が起きたかという仮説を組み上げ、ある結論に辿り着いたところで訪れる。そこからの展開は脱出ゲームのよう、とだけ書いておこう。足を踏み入れてしまった事態は、無情な人生の終了宣言を受けてしまうかもしれないほどに深刻なものだ。抜け出すことができるのか。そのためには何を信じ、どの選択肢に身を預ければいいのか。ユジンが必死にもがくさまが中盤では描かれる。

 全体は四部構成になっており、第三部以降では物語の見え方ががらりと変わってくるはずだ。おそらく、一部の読者はここで脱落すると思う。冒頭から漂っている血の匂いにむせて我慢できなくなるだけではなく、作者が掘り起こそうとするものに不安を感じるからである。

 本書の主題に到達するためには、二つの関門を通過しなければならない。一つは記憶の霧だ。前述したようにユジンには記憶障害という問題があり、彼の過去はまだら状になっている。その中から確からしいものを拾い集める作業に主人公は従事するので、読者はしばらくそれに付き合わなければいけない。足場もよく見えないような濃霧の中でそれを行うのだから、どこに陥穽があるのか油断がならない。ある登場人物の日記が導線として示される。それとて主観で綴られたものなのだから、どこまで信用していいものか。だが、この危険な遡及行がたまらなく楽しいというサスペンス読者もいるだろう。

 もう一つの関門とは、主人公の自意識に起因するものである。本書の主人公であるハン・ユジンは、かつて外的な要因によって夢を諦めさせられ、母に強制された借り物の人生を送ってきた。そうした人間が本当の自分に巡りあいたい、着せられた囚人服を脱ぎ捨てて中にあるものを曝け出したいと切望する小説でもある。つまり青春小説の重要な類型に沿った物語なのであり、こうしたユジンの姿勢に共感したくなる読者は多いはずだ。一人称「ぼく」で本書が綴られている狙いもそこにあり、作者は読者がユジンに自分を重ね合わせるまで真の狙いを明らかにしようとはしない。抜き差しならないところまで、読者を誘いこみたいのだ。

 後半で小説の主題が明らかにされたとき、誰もが鋭いナイフを喉元に突き付けられたような感覚を味わうはずだ。考えろ、とチョン・ユジョンは言う。ユジンがわずかな時間に自分という存在について考えなければならなかったように、あらん限りの力で考えるのだ。考えた結果、頭上にそれまでは見えなかった黒い雲が現れ、せっかくの青い空を覆い隠してしまった、と嘆く読者が出て来るかもしれない。それでいい。それでもいいから、考えるのだ。

(杉江松恋)

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